西国街道とは何だったのか——山陽道の別名と、国道2号に重なる神戸・兵庫の道

歴史

神戸の街なかを東西に貫く国道2号を、私たちはふだん何も考えずに走ったり歩いたりしています。三宮の交差点、元町の南、兵庫のあたり——車の流れる広い道。けれどもこの道筋のかなりの部分は、江戸時代の旅人が西へ向かって歩いた街道とほとんど重なっています。

その街道の名を、西国街道といいます。

名前は聞いたことがあっても、それが何だったのかと問われると、案外うまく答えられません。山陽道とどう違うのか、中国街道とは別の道なのか。調べはじめると、この道は名前からして一筋縄ではいきませんでした。

大路から脇街道へ

西国街道のもとをたどると、奈良・平安の昔の山陽道に行き着きます。律令国家が全国に敷いた七つの官道のうち、山陽道だけが「大路」とされました。大宰府という対外の窓口へ通じる、いわば国家の大動脈だったからです。

ところが江戸時代になると、この道の格は下がります。幕府が街道整備の重点を江戸中心の五街道に置いたため、かつての大動脈は脇往還——脇街道のひとつに位置づけられました。道幅は二間半、およそ4.5メートルと定められています。京都の羅城門(東寺口)から赤間関、いまの下関までを結ぶこの道が、近世には西国街道、あるいは西国往還と呼ばれました。

格落ち、とはいえ寂れたわけではありません。むしろ逆でした。参勤交代で江戸と国元を往復する西国の大名たちが、こぞってこの道を使ったからです。広島市が「ほうじゃ!西国街道で遊ぼうや」というサイトで紹介しているとおり、広島では城下を東西に貫く街道沿いに店が立ち並び、城下町のメインストリートになっていました。脇街道とは名ばかりの、西日本の主要路でした。

名前が、定まらない

この道のややこしさは、呼び名にあります。

西国街道、中国街道、山陽路、西国路。同じ道を指していそうな名前がいくつもあって、しかも資料によって区切り方が違う。「西国街道の名称について」という考証ページを読むと、京都から下関までの全部を西国街道と呼ぶ立場もあれば、京都から兵庫あたりまでを西国街道、その先を中国街道と呼び分ける立場もある、と整理されていました。「西国」という言葉が指す範囲が時代とともに縮んでいったことが、混乱の一因だといいます。

近世の役所言葉では、京都から西宮までの区間を「山崎通」と呼びました。コトバンクに収められた辞典の記述では、この山崎通に山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の六つの宿駅が置かれていた、とあります。同じ一本の道が、立場によって西国街道になったり山崎通になったりする。

個人的に面白かったのは、これだけ大きな道なのに、誰もが従う唯一の正式名称というものが見当たらないことでした。道は一本でも、名前のほうは時代と立場の数だけありました。

ちなみに大坂と西宮を結ぶ浜沿いの道は中国街道(浜街道)と呼ばれ、西宮で西国街道に合流します。大坂方面から西をめざす人も、結局はこの一本に乗り入れて神戸・兵庫へ入っていったわけです。

兵庫津で、道が直角に曲がる

神戸・兵庫のあたりで、この街道はちょっと変わった振る舞いを見せます。まっすぐ西へ抜けず、わざわざ直角に折れているのです。

兵庫津——古代の大輪田泊を前身とする港町は、江戸時代に大いに栄えました。船で運ばれてきた荷を京や九州へさばく中継地で、宿屋や料理屋がひしめいていたといいます。神戸新聞の連載「てくてく神戸」の兵庫津編は、この一帯でいちばん賑わった「札場の辻(札の辻)」の跡が、街道が直角に曲がる地点にあたると伝えています。

なぜ曲がるのか。同じ記事は、もともと直線だった山陽道を、人の集まる兵庫津にわざわざ立ち寄らせるために、こんな曲がり方になったのではないか、と推し量っています。確証のある話ではありません。ただ、幹線を折ってでも町なかへ引き込むだけの価値が、当時の兵庫津にはあったわけです。

いまその札の辻跡に立っても、案内板と小さな標柱があるくらいで、料理屋の賑わいは残っていません。残るのは、当時のままの曲がり角だけ。

山側の道と、海側の道

神戸の東のはずれ、芦屋の打出から生田神社の南あたりまでは、街道が二筋に分かれていました。山寄りを行くのが西国本街道、海寄りを行くのが西国浜街道です。本街道は六甲の山裾を縫い、浜街道は海沿いの集落をつないでいく。急ぐ人や荷を運ぶ者は、勾配や潮の都合で道を選び分けたのでしょう。二筋は生田神社の南でふたたび一本にまとまり、そこから西の兵庫津へ向かいます。どちらの筋が現在のどの道に重なるのかは、市街地が広がったいまとなっては、地図の上でもたどりにくくなっています。

それは、いまも国道2号

そして冒頭の話に戻ります。

近世の西国街道——旧山陽道を、ほぼそのまま前身として引き継いだのが、現在の国道2号です。大阪市北区の梅田新道交差点を起点に、西宮・芦屋・神戸・明石・加古川・姫路を抜け、山陽路を西へたどって、北九州市門司区まで。総延長はおよそ690キロ。一般国道のなかでも有数の長さです。

もっとも、旧道とぴったり重なっているわけではありません。岡山から福山にかけては、大正の終わりに、重要性を増した倉敷を通すルートへ付け替えられ、古い山陽道からは外れています。

それでも、神戸・兵庫を東西に貫くあの広い道が、千年以上前の官道の延長線上にあることは変わりません。高槻市でみつかった古代山陽道の跡は、現代の西国街道とほぼ同じ位置にあった——高槻市立図書館の資料はそう紹介しています。

兵庫津の曲がり角を、いちど歩いてみたいと思っています。直角に折れたその一点だけは、車ではまず気づけません。

参考・出典

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