「標準語」はいつ生まれたのか——方言と共通語のあいだ

「標準語」はいつ生まれたのか——方言と共通語のあいだ 言葉

テレビのニュースで読まれる言葉、教科書に並ぶ文章、知らない土地でとりあえず使うあらたまった話し方。それらをまとめて、わたしたちは「標準語」と呼びます。なんとなく、昔から日本のどこかにあった「正しい日本語」のように感じている人も多いと思います。

ところが、この言葉はそれほど古くありません。明治に入って国をひとつにまとめようとするなかで、半ば人の手で作り出されたものでした。手本になったのは、東京のある一帯で話されていた言葉づかいです。

明治まで、日本語はそろっていなかった

江戸時代まで、全国どこでも通じる話し言葉というものは、はっきりとは存在しませんでした。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースの回答をたどると、奈良時代は大和、平安から室町は京都というように、その時々の政治や文化の中心地の言葉が「規範的・標準的なことば」として扱われてきた、とあります。中心が移れば、手本も移る。ただしそれは書き言葉や教養層の世界での話で、人々が日々しゃべる言葉は地方ごとに大きく違っていました。藩が違えば言葉も違い、武士同士でも話が通じにくいことがあった、とよく言われます。

それでも困らなかったのは、ほとんどの人が生まれた土地で一生を終えたからでしょう。事情が変わったのは明治です。徴兵で各地の若者が同じ軍隊に集められ、学校で全国一律の教育が始まり、役所や鉄道が人を動かすようになる。違う土地の者どうしが言葉を交わさなければならない場面が、急に増えました。

上田万年

共通の話し言葉が要る。その必要に、はっきりした輪郭を与えたのが上田万年です。

上田は1890年から94年にかけてドイツへ留学し、西ヨーロッパの言語研究の方法を日本に持ち帰った人物だと、コトバンクは紹介しています。科学的な国語学の出発点をつくった一人、という評価です。そのヨーロッパで彼が出会った考え方のひとつが、近代国家にはその国を代表する規範の言葉――standard language――があるべきだ、というものでした。

帰国まもなく上田は「標準語に就きて」という論文を書きます。標準語とは一国の模範として用いられる言葉であり、しかも現実にどこかで話されている言葉でなければならない。そのうえで彼は、首都・東京の教養ある人々が使う言葉を磨いたものを、日本の標準語にするのがよいと主張しました。漠然と「東京弁」ではなく、山の手と呼ばれた地区の中流以上の家庭の話し方が念頭にありました。

この主張は政策へ流れ込みます。1902年、文部省は国語調査委員会を設け、方言を調査して標準語を選び定める仕事に取りかかりました。上田はその中心メンバーの一人です。

言文一致

標準語づくりは、話し言葉だけの問題ではありませんでした。書き言葉の側でも、大きな地殻変動が起きています。

明治の半ばまで、文章は平安時代を源とする文語体で書くのが当たり前で、人がしゃべるとおりに書くという発想は薄いものでした。福沢諭吉の『学問のすゝめ』でさえ、古めかしい文語で書かれています。ここに切り込んだのが言文一致の運動でした。1887年に二葉亭四迷が発表した『浮雲』は、日本で初めて口語体だけで書かれた小説とされます。ロシア文学を訳すなかで、話し言葉と書き言葉が地続きであることの強みを、彼は痛感していたのでしょう。

そして、この口語の書き言葉を全国に配ったのが教科書です。明治36年から使われ始めた国定教科書『尋常小学読本』は、東京の中流社会で使われる言葉を土台に本文を整え、それを国語の手本として子どもたちに行き渡らせました。学校で読み、書き、声に出す。標準語はまず、教室から広がりました。

方言を、札で罰する

ここまでは「手本を広める」話です。けれど標準語の普及には、もう一つ別の顔がありました。手本でないものを、押さえつける顔です。

明治維新ののち、方言は国家の統一を妨げるもの、いわば社会の悪とまで言われるようになっていきます。さきほどのレファレンス協同データベースの回答にも、その社会悪を取り除くのが標準語教育であり、「方言撲滅」が国語教育のおもな務めになっていった、と記されています。

象徴が方言札でした。学校で方言を口にした子に、カマボコ板ほどの木の札を首から下げさせる。やっかいなのは外し方です。自分の意思では外せず、ほかの誰かが方言を話すのを見つけて札を回し、ようやく自分の首から離れる。子どもどうしが互いの言葉を見張り合うしくみが、そこには仕込まれていました。

この罰札のしくみは、もともとフランスなどで地方語を抑えるために使われていたものでした。それが日本にも持ち込まれたのだと、英語史を研究する堀田隆一氏は書いています。本土との言葉の差が大きい沖縄ではとくに熱心に行われ、1937年に日中戦争が始まって国民精神総動員の空気が強まると、沖縄県では1939年、標準語励行運動として組織的に推し進められました。東北や鹿児島でも、似たことがあったと伝わります。

ただ、押さえつければそのまま従う、というほど子どもは単純でもなかったようです。札への反発から、かえって校内で方言が盛んになった例もありました。方言取締りを出した中学校長をもじった反発の歌が、校門に貼り出されたという逸話まで残っています。

「標準語」から「共通語」へ

戦後になると、この「標準語」という言葉そのものが、だんだん避けられるようになります。

きっかけの一つは、国立国語研究所が1949年から福島県白河市で行った言語調査でした。研究所のことば研究館の説明によれば、ここで見つかったのは、東北方言とも東京語とも違う、その中間のような日本語を話す人々です。研究所はこれを「全国どこでも通じる言葉」と評価し、共通語と呼びました。東京語に近いけれど、必ずしも一致しない。あくまで現実に通じ合っている言葉、という捉え方です。

ここに、二つの言葉のはっきりした違いがあります。標準語は、こうあるべきだと上から規範として整えられた、いわば人工の正式な言い方です。共通語は、結果として全国で通じている実態のほうを指します。あるべき姿か、通じている現実か。視点がまるで違う。

呼び名が置き換わっていった背景には、方言を劣ったものとして抑えつけた時代への反省があります。標準語教育はしばしば方言を否定的に扱い、明治期の資料には「下品ナル言語及方言・訛語ハ之ヲ避クベシ」といった文言まで残っています。昭和15年の方言論争を境に、方言を撲滅する流れは弱まり、標準語と方言は共に在ってよいという方向へ傾いていきました。学校や放送でも、「標準語」に代わって「共通語」が目標として語られるようになります。

もっとも、言葉を入れ替えれば気持ちまで切り替わるわけではありません。方言にひそかな引け目を感じる「方言コンプレックス」は、そのあとも長く尾を引きました。標準語と方言、あるいは共通語と方言。その「あいだ」で、どちらを恥じることもなく行き来できるようになるまでには、呼び名の変更よりずっと長い時間がかかったのだと思います。

参考・出典

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