有馬温泉はなぜ「日本最古」と呼ばれるのか——3000年の伝説と、600万年前の海水

有馬温泉はなぜ「日本最古」と呼ばれるのか——3000年の伝説と、600万年前の海水 歴史

有馬温泉は、よく「日本最古の温泉」と紹介されます。神戸の市街地から車で30分ほど、六甲山の北側にひっそりと抱かれた古い湯の町です。ただ、「最古」と言われて、その根拠をすぐ説明できる人は意外と少ないのではないでしょうか。いつから湧いているのか、誰が最初に見つけたのか。調べはじめると、有馬の「最古」には一つの答えがありません。神話なら3000年前、文献なら7世紀、そして地質の側からたどれば、湯のもとは600万年前の海水だといいます。まるで層の違う時間が、同じ一つの湯に重なっているのです。

「最古」の中身

まず神話の層から。有馬の発見は、国づくりの神とされる大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱にさかのぼる、と地元の湯泉(とうせん)神社の縁起は伝えます。傷ついた三羽のカラスが水たまりで傷を癒すのを見て、神々がそこに湯を見つけた——「有馬の三羽がらす」として知られる話です。年代でいえば、おおよそ3000年前。神代のことですから、もちろん史実として確かめられるものではありません。

文字に残る確かな記録としては、『日本書紀』が最初です。舒明天皇が舒明3年(631年)、摂津国の有馬の温湯宮(ゆのみや)に行幸し、9月から12月まで86日も滞在したと記されています。続く孝徳天皇も大化3年(647年)に82日間を有馬で過ごしました。どちらも3か月近い長逗留です。天皇が政務をひとまず離れ、これだけ腰を据えた場所だった、というのが正史に残る有馬の出発点になります。ちなみに、のちに謀反の罪で命を落とす有間皇子の名は、この有馬の地にちなむともいわれます。

同じ「最古」でも、神話の3000年前と、文献の7世紀とでは、よって立つ地面がまるで違います。

滅びと再興

有馬の歴史は、ずっと順調に栄えてきた、という単純な話ではありません。むしろ何度も壊れては立て直されてきた湯です。

奈良時代には、僧の行基が堂を建て、薬師如来をまつって温泉の基礎を整えたと伝わります。しばらく賑わいますが、承徳元年(1097年)の大洪水で湯の町は壊滅します。その後は90年あまり、ほとんど人の寄りつかない荒れ地でした。

これを立て直したのが、吉野から来た仁西という僧です。兵庫県立歴史博物館の解説によれば、建久2年(1191年)に温泉寺を建て直し、薬師如来を守る十二神将になぞらえて12の坊舎を開いたといいます。宿坊の数を仏の数になぞらえるあたり、湯治と信仰がひと続きだった時代がしのばれます。それでも町が安泰だったわけではありません。享禄元年(1528年)、天正4年(1576年)と、有馬はたびたび大火で焼けています。

秀吉が通いつめた湯

有馬を語るとき、豊臣秀吉は外せません。記録に残るだけで9回も湯治に通い、正室のねねを伴うこともありました。天下を取ったあとも、わざわざ足を運んでいます。

ことに力を入れたのが、文禄3年(1594年)に造らせた「湯山御殿」です。専用の湯殿をしつらえるため、周囲の民家を立ち退かせたといいます。ところが完成して間もない慶長元年(1596年)、慶長伏見地震が有馬を襲い、御殿は倒れ、泉源の温度が跳ね上がって湯が使えなくなりました。秀吉はその復旧と泉源の改修に乗り出しますが、再建のさなかの慶長3年(1598年)に世を去ります。

その湯山御殿の遺構が、のちの発掘で地中から見つかり、いまは「太閤の湯殿館」として公開されています。地震で埋もれた秀吉の湯殿が、400年を経て掘り出された——歴史の巡り合わせにしては、少しできすぎているようにも感じます。

火山がないのに、なぜ熱いのか

ここからが、有馬のいちばん不思議なところです。

温泉と聞けば、たいていは火山を思い浮かべます。地下のマグマが地下水を温め、それが湧いてくる。日本の温泉の多くは、そのかたちです。ところが有馬の周りに、活火山はありません。そもそも近畿地方そのものに、活火山がほとんどないのです。火の気は、ない。それでいて有馬の湯は熱く、もっとも高い泉源では98℃近くにもなります。マグマもないのに、なぜこれだけ熱い湯が湧くのか。

この問いに、近年はっきりした答えが出ました。神戸大学の巽好幸さんたちの研究グループが2020年に英国の科学誌で発表したもので、鍵を握るのは、日本列島の下へ沈み込むフィリピン海プレートです。

プレートは海の底ごと、海水を抱えたまま地下へもぐり込んでいきます。神戸大学の解説によれば、中国・近畿地方の下に沈み込んでいるのは2500万〜1500万年前にできた「若くて熱い」プレートで、九州の下にある5000万年以上前の「古くて冷たい」プレートとは性質が違うといいます。若く熱いプレートは、比較的浅い地下60〜70キロほどで、抱え込んだ水を高温の流体としてしぼり出します。深いところで強い圧力を受けた水は、地上の沸点をはるかに超える高温になっています。それが上がってきたものが、有馬の湯になる。

この説明には、もう一つ効いた点があります。近畿に活火山が少ない理由まで、同じ仕組みで説明できることです。水がこの深さで先に抜けてしまうため、奥でマグマができにくい。火山がないことと温泉が湧くことが、じつは裏表の関係になっているわけです。

しかも、湧き出すまでの時間が桁外れでした。プレートとともに地下へ引き込まれた海水が、有馬の湯として地表へ戻ってくるまで、およそ600万年かかるとみられています。いま手をひたしている湯のもとは、人類が現れるよりはるか前の海水だ、ということになります。その海水が地表へ抜けてくる通り道としては、有馬-高槻構造線という活断層が走っていることも知られています。

金泉と銀泉

有馬の湯には、見た目のまるで違う2種類があります。

一つは「金泉(きんせん)」。赤褐色に濁った、有馬を象徴する湯です。鉄分と塩分を多く含む含鉄塩化物泉です。塩分の濃さは、海水を上回るほど。地中ではほぼ透明なのに、地上で空気に触れると鉄分が酸化して、あの赤茶けた色に変わります。600万年かけて海水が地下を旅してきた、という話とも辻褄の合う濃さです。

もう一つが「銀泉(ぎんせん)」。こちらは無色透明で、二酸化炭素を含む炭酸泉と、ラジウムを含む放射能泉とに分かれます。同じ町から、これほど性質の異なる湯が並んで湧く。有馬温泉の公式解説によれば、環境省が療養泉として定める9種の主成分のうち、硫黄泉と酸性泉を除く7種までを有馬の湯は含んでいるそうです。狭い土地にこれだけの泉質が同居するのは、世界的にも珍しいといわれます。

何が「最古」を支えてきたか

有馬が「最古」を名乗りつづけてこられたのは、湯そのものの古さだけによるのではありません。古い文献や文人たちが、その評判を絶えず上書きしてきたことも大きいと思います。

平安時代、清少納言は『枕草子』で「湯は、ななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と書き並べ、有馬を古来の名湯の一つに数えました。江戸時代になると、温泉は番付の形でも格付けされます。相撲をまねた温泉番付で、有馬は西の最高位、西の大関に据えられました(当時は横綱の位がまだありません)。東の大関が草津、西の代表が有馬、という構図です。本草学者の貝原益軒が『有馬湯山記』を著し、子宝の湯として知られたことも、有馬の名を広げました。時代が下っても、谷崎潤一郎が有馬に長く逗留して筆を執るなど、この湯の町を好んだ書き手は絶えません。

こうして並べてみると、有馬の「最古」は、1枚の決定的な証拠で決まっているわけではないことがわかります。3000年前という神話の時間、7世紀という文献の時間、600万年という地質の時間。性質のまるで違う三つの古さが、たった一つの湯に折り重なっています。「最古」とは、そのどれか一つを指すのではなく、重なりぜんぶのことなのかもしれません。

参考・出典

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