処女塚古墳——豪族の墓に、菟原処女の悲恋が重なるまで

処女塚古墳——豪族の墓に、菟原処女の悲恋が重なるまで 歴史

神戸市東灘区、石屋川のほとりの住宅街に、こんもりとした小さな塚があります。処女塚古墳。少し物騒にも聞こえるこの名は、ここが万葉集に詠まれた悲恋伝説の舞台とされてきたことに由来します。一人の娘をめぐって二人の男が争い、娘も男たちも命を絶った——そんな話の「娘の墓」だというのです。

ところが、塚を掘ってみると、眠っていたのは伝説の娘ではありませんでした。出てきたのは、はるか昔の豪族の墓のしるしです。伝説と実態は、どうやら別物らしい。では、悲しい名はどこから来たのか。

石屋川べりの前方後方墳

考古学が語る処女塚古墳は、古墳時代のはじめ、3世紀後半に築かれた墓です。神戸市教育委員会の説明によれば、復元すると全長はおよそ70メートル。前を四角く張り出させた前方後方墳で、海のある南を向き、後方部は3段、前方部は2段に築かれていました。斜面には石が葺かれ、円筒埴輪は立てられていません。そのかわりに、墳丘からは山陰地方の特徴をもつ壺形の土器が、数個体分まとまって見つかっています。

おもしろいのは、その土器です。山陰の様式のものが供えられているということは、葬られた人物が、遠い山陰の地と何らかのつながりをもっていたことをうかがわせます。被葬者は、この一帯を治めた豪族とみられていますが、名前は分かりません。

形についても、資料の言うことが食い違います。国の史跡に指定された大正時代の記録は、これを前方後円墳としていて、文化庁の文化遺産オンラインも、いまだに「前方後円型」と記したままです。一方、昭和50年代の整備調査をふまえた神戸市教育委員会の説明板では、前方後方墳とされています。後円か、後方か。判断が割れたのは、墳丘がすでに削られて元の形を失っていたからでもあります。いまの高まりは、もとの70メートルから50メートルほどに縮んでいます。

菟原処女の伝説

さて、ここに重なっているのが、菟原処女(うないおとめ)の物語です。

万葉集の巻九に、奈良時代の歌人・高橋虫麻呂が「菟原処女の墓を見る歌」として、長歌と反歌を残しています。歌番号でいえば1809から1811。菟原に美しい娘がいて、同じ里の菟原壮士と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)の二人が、激しく求婚した。娘はどちらも選べず思い悩んだ末に、「あの世でお待ちします」と言い残して自ら命を絶ちます。すると茅渟壮士が夢にその姿を見て後を追い、残された菟原壮士も負けじと命を絶った——という筋です。

この伝説は、虫麻呂ひとりのものではありません。同じ万葉集には田辺福麻呂の歌があり、大伴家持までもがこの墓に寄せて歌を残しています。奈良時代には、菟原処女の話はもう、歌人なら誰でも知っている「伝説」だったわけです。

三つの塚という見立て

なぜ、この古墳が娘の墓ということになったのか。鍵は、近くにある二つの塚です。

処女塚から東へおよそ1.5キロ、住吉宮町に東求女塚古墳があり、西へおよそ2キロ、灘区都通には西求女塚古墳があります。求女塚——女を求める塚。中央の処女塚を娘の墓に、東西の求女塚を、その娘に求婚した二人の男の墓に見立てる。兵庫県立歴史博物館の解説も、この3古墳の位置関係から物語が生まれたと説明しています。

地名と物語のどちらが先か、というのは難しいところです。塚が三つ東西に並んでいたから悲恋が読み込まれたのか、それとも悲恋の話があったから東西の塚が「求女塚」と呼ばれるようになったのか。おそらく両方が、長い時間のなかで互いを補強し合ってきたのでしょう。ただ、考古学の目で見れば、三つの塚は築かれた時期も形もそろっていません。本来は、それぞれ別の豪族の墓です。

物語が育っていく

いったん土地と結びついた物語は、時代ごとに姿を変えていきます。

平安時代の『大和物語』は、その147段で、舞台を生田川に移し替えました。二人の男が川の水鳥を射て競い、娘が生田川に身を投げる——よく知られた「生田川伝説」のかたちです。さらに室町には、観阿弥あるいは世阿弥の手になる謡曲『求塚』が、娘の亡霊を地獄の責め苦のなかに描き出します。明治の末、1910年には、森鷗外が戯曲『生田川』を書き、自由劇場の舞台にかけました。

名を失った墓に

考えてみると、古墳が築かれた3世紀後半と、菟原処女の歌が詠まれた奈良時代とのあいだには、ざっと400年の隔たりがあります。墓の主が誰だったかは、歌が詠まれた頃にはもう忘れられていたはずです。その空白にこそ、物語は宿ったように見えます。名前の残る墓には、かえってこうした伝説は寄りつきにくいのかもしれません。

塚の上には、別の物語の層も載っています。墳丘には、小山田高家をたたえる石碑が立っています。『太平記』によれば、延元元年(1336年)の湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すため、高家はこの処女塚のあたりで討ち死にしたといいます。碑が建てられたのは、ずっと後の1846年のことでした。古い豪族の墓に、奈良の悲恋が重なり、南北朝の忠臣の最期が重なり、近世の石碑が立つ。

被葬者の名は、いまも分かりません。けれど名が消えたからこそ、この塚はかえって多くの物語を引き受けてきました。石屋川べりの小さな前方後方墳は、誰のものでもなくなったことで、いくつもの時代の記憶を載せる場所になっています。

参考・出典

タイトルとURLをコピーしました