コーヒーはなぜ世界飲料になったのか——伝播・禁止・近代化の軌跡

コーヒーはなぜ世界飲料になったのか——伝播・禁止・近代化の軌跡 歴史

いま世界では、1日におよそ20億杯のコーヒーが飲まれているといわれます。原産地は、アフリカの一地域——エチオピアの高地でした。そこに自生していた1本の低木。その赤い実から作る飲み物が、いまでは世界じゅうの台所と職場に行き渡り、原油に次ぐとも言われる規模で取引される国際商品になっています。

ただ、その道のりは、なめらかな「世界制覇」ではありませんでした。コーヒーは、広まるそばから何度も禁じられています。メッカでは異端の飲み物として弾圧され、ローマでは「悪魔の飲み物」と疑われ、ロンドンでは国王が店をまとめて閉じさせようとしました。禁じられては復活し、また別の土地で禁じられる。なぜ、ただの飲み物がここまで警戒され、それでも広がりきってしまったのでしょうか。

山羊飼いと、眠らない修道士

起源には、有名な作り話がついて回ります。ブリタニカや全米コーヒー協会(NCA)の歴史解説がそろって紹介しているのは、エチオピアの山羊飼いカルディの伝説です。9世紀ごろ、自分の山羊が赤い実を食べてやけに元気になるのを見て、その実を試した——という話で、もちろん後世の脚色でしょう。実際の植物としてのコーヒーノキは、エチオピア南西部の高地に自生していたと考えられています。

飲み物としての歴史がはっきりしてくるのは、紅海を渡った先のイエメンです。NCAの解説によれば、15世紀ごろまでにアラビア半島南部でコーヒーの栽培が始まりました。そして最初期の飲み手として名前が挙がるのが、イスラム神秘主義(スーフィズム)の修道士たちです。彼らは夜を徹して祈るために、眠気を払う飲み物としてコーヒーを役立てました。眠らずに集中するための実用品。出発点は、ずいぶん地味だったわけです。

やがて、この飲み物のために専用の場所ができます。「カフヴェ・ハーネ」と呼ばれるコーヒーハウスです。メッカからカイロ、ダマスカス、そしてオスマン帝国の都イスタンブールへと、16世紀のうちに広がっていきました。そこは単に飲む場所ではありませんでした。人々が集まって会話し、盤上遊戯に興じ、音楽を聴き、その日のうわさや政治を語る。NCAがこれを「賢者の学校」と呼ばれたと書いているとおり、情報と議論が行き交う社交の拠点になっていったのです。

メッカで禁じられた朝

その社交の場が、さっそく問題になります。記録に残るコーヒー弾圧の最初の例が、1511年のメッカでした。

中世史を扱うサイト Medievalists.net が紹介する研究によると、ことの発端は市場監督官のハーイル・ベグという人物です。彼はモスクの外でコーヒーを飲む男たちを見とがめ、これを禁じました。表向きの理由は宗教でした。コーヒーを指すアラビア語「カフワ」は、もともと酒を意味する語でもあり、ならばこれは酒と同じく人の心を乱す「ハラーム(禁忌)」ではないか、というわけです。反対派は、コーヒーを飲んで酔ったように見えた者がいた、と証人を立てさえしました。

けれど、もう少し近づいて見ると、宗教論争の下に別の事情が透けます。コーヒーハウスでは、為政者をからかう風刺の詩がこっそり詠まれ、人々のあいだで回し読みされていた。同じ研究は、ハーイル・ベグがコーヒーハウスを「居酒屋のような場所」とみなし、人がそこで身を持ち崩すと訴えたことを伝えています。要するに、酒に酔うかどうかよりも、人が集まって好き勝手に語り合うことのほうが厄介だったのです。禁止の本当の理由が「眠気覚まし」ではなく「人が集まること」にあった——この一点に、私はいちばん引っかかりました。

宗教の側からの答えは、じつは弾圧より早く出ていました。1509年には、メッカのシャーフィイー派の大法官がコーヒーを認めるファトワ(法的見解)を出し、礼拝への集中を助けるその働きを評価しています。医師たちは飲んだ人を観察する実地の検証まで行い、心を狂わせる害はないと結論づけました。一方で禁止令のもとでは、違反者には10回ほどの鞭打ちが科されたといいます。結局、この騒ぎは長く続きませんでした。コーヒーそのものを禁じる根拠は弱く、上位の権力者が「怪しい集まりは取り締まってよいが、飲むのは放っておけ」と裁定して、ほどなく解禁へ向かいます。

オスマン帝国に入っても、同じことが繰り返されました。コーヒーハウスはたびたび閉鎖を命じられ、時には厳しい刑罰がちらつかされます。それでも店は、そのつど戻ってきました。

「悪魔の飲み物」を、法王が認めた

ヨーロッパには、オスマン帝国との交易の窓口だったベネチアを通って入ってきます。全日本コーヒー協会の年表は、コーヒーがベネチアに伝わったのを1615年ごろとしています。

ここでも、最初の反応は警戒でした。イスラム圏から来た飲み物だというので、聖職者のなかには「異教徒の飲み物」「悪魔の飲み物」として退けようとする声があったといいます。そこで登場するのが、ローマ法王クレメンス8世です。有名な逸話では、法王は禁じる前にみずから一口飲んでみて、かえってその味を気に入り、洗礼を授けるようにして公認した——と伝えられています。この「法王が悪魔の飲み物を祝福した」という話は、出来すぎているぶん後世の脚色も混じっているはずですが、ヨーロッパが警戒から受容へ折り返した雰囲気は、よく伝えています。

法王のお墨付きが本当に効いたのかはともかく、17世紀のヨーロッパでコーヒーは急速に市民権を得ていきました。そして次の舞台は、海峡を渡ったイングランドです。

ペニー大学

ロンドンのコーヒーハウス文化は、別格でした。英国の歴史を紹介する Historic UK によれば、イングランド最初のコーヒーハウスは1652年、ロンドンのコーンヒルに、パスカ・ロゼなる人物が開いた店だとされます。

これらの店は、やがて「ペニー大学(penny universities)」と呼ばれるようになります。コーヒー1杯のおよそ1ペニーを払えば、最新の議論や知識に加われたからです。サミュエル・ピープスやアイザック・ニュートンといった顔ぶれも出入りしました。面白いのは、ここから現実の制度がいくつも生まれたことです。Historic UK は、エドワード・ロイドの店が海運業者や保険の引き受け手の集まる場になり、のちの保険組織ロイズ・オブ・ロンドンに発展したこと、ジョナサンズ・コーヒーハウスがロンドン証券取引所の母体になったことを伝えています。飲み物を出す店が、保険と株式市場を生んだわけです。

国王は、これを快く思いませんでした。1675年、チャールズ2世はコーヒーハウスの閉鎖を命じる布告を出します。店が反政府的な議論の温床になっている、というのが理由でした。ところが、これが猛烈な反発を呼びます。Historic UK によれば、布告はわずか11日ほどで撤回に追い込まれ、店はそのまま増え続けました。メッカの監督官が手を焼いたのと、構図はそっくりです。

1本の苗木と、その影

ここまでは「広まる/禁じられる」の話でした。コーヒーを本当に世界商品へ変えたのは、もう一つの力——栽培地を、産地イエメンの外へ持ち出す動きです。

長いあいだ、コーヒーはイエメンのほぼ独占でした。ブリタニカや全日本コーヒー協会の年表をたどると、その独占を崩したのはオランダ人です。彼らは17世紀後半にセイロン(スリランカ)で、続いてジャワ島で栽培を成功させ、植民地のプランテーションでコーヒーを作り始めました。「モカ」と「ジャワ」を合わせた古典的なブレンドは、この時代の産物です。

栽培はさらに大西洋を越えます。よく語られるのが、フランス海軍士官ガブリエル・ド・クリューの逸話です。NCAの解説によれば、彼は1720年代に1本の苗木をカリブ海のマルティニク島まで運びました。航海中、乏しい水を苗に分けてやって守り抜いた、という話が残っています。その1本が、警備つきで育てられたのち、数十年で数百万本に増え、カリブから中南米へ広がるコーヒーの祖になったとされます。ブラジルにも、フランシスコ・デ・メロ・パリェタが種子を持ち出して栽培が始まった、という伝承があります。のちに世界最大の生産国になる国の出発点です。

けれど、この「広がり」には影がありました。植民地のコーヒーは、奴隷労働の上に成り立っていたのです。とりわけ、いまのハイチにあたるフランス領サン=ドマングは、その象徴でした。コロニアル・ウィリアムズバーグ財団の資料「Slavery and Remembrance」によれば、革命直前のサン=ドマングはフランス帝国でもっとも豊かな植民地で、ヨーロッパに入る砂糖のおよそ4割、コーヒーの実に6割を産み出していました。その富は、おびただしい数の奴隷の上に築かれます。同資料は、この島へ運び込まれたアフリカ人がおよそ80万人にのぼり、北米へ送られた人数の倍近くだったと記しています。労働環境は過酷を極めました。私たちが「世界に広まった嗜好品」と呼ぶものの裏側に、これだけの犠牲があったことは、軽く流せません。1791年、その島で奴隷たちが蜂起します。世界で唯一、奴隷反乱から独立国家(ハイチ)が生まれた革命でした。

近代の飲み物として

19世紀に入るころには、コーヒーはもう、一部の知識人や富裕層の贅沢品ではなくなっていました。植民地での大量生産が価格を押し下げ、ありふれた日用品へと変えていきます。とりわけブラジルが圧倒的な生産国としてのし上がり、20世紀には西半球の生産を支配するまでになりました。

飲み方も近代化します。豆を焙煎する機械、鮮度を保つ真空包装、そして水に溶けるインスタントコーヒー。全日本コーヒー協会の年表は、湯に溶けるコーヒーの考案を、日本人化学者の加藤サトリの仕事として19世紀末に置いています。淹れる手間すらいらない1杯が、こうして現れました。

日本への入り方も、振り返ると面白い順番をしています。同じ協会の年表によれば、コーヒーが最初に持ち込まれたのは江戸時代、長崎の出島に出入りしたオランダ人を通じてでした。一般に広まるのはずっと後で、明治期に東京で本格的な喫茶店が開かれ、ブラジル政府が宣伝を後押ししたカフェも登場します。エチオピアの高地に生えていた低木が、イエメンの修道院、イスタンブールの社交場、ロンドンの「大学」、植民地のプランテーションを経て、ようやく極東の島国の朝の食卓にたどり着いた——その距離と時間を思うと、いま手元にある1杯が、少しだけ違って見えます。

禁じられ、また飲まれ、世界の隅々まで運ばれた。コーヒーが世界飲料になったのは、それが無害でおとなしい飲み物だったからではありません。むしろ逆で、人を集めて語らせる力があったからこそ、何度も警戒され、そのたびに必要とされ続けたのでしょう。

参考・出典

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