なぜ時計の針は右回りなのか——日時計と北半球が決めた方向

なぜ時計の針は右回りなのか——日時計と北半球が決めた方向 歴史

時計の針は右へ回る。アナログの掛け時計はもちろん、ストップウォッチも、ガスの元栓も、競技場のトラックの回り方まで、私たちは右回りと左回りをほとんど無意識に使い分けています。「時計回り」という言葉が方向を指す物差しとして通用するくらい、この向きは感覚へ深く入り込んでいます。

ところが、針がこちら向きに回らなければならない理由は、物理のどこにもありません。逆回りでも時計は時計として成り立ちます。では、なぜ右回りなのか。糸口をたどっていくと、機械よりずっと古い、棒一本の時計に行き着きます。

棒の影で時を計る

人類が最初に手にした時計は、日時計でした。地面にまっすぐ棒を立て、その影の向きと長さで、おおよその時刻を読む。この棒をグノモン(投影棒)と呼びます。セイコーミュージアム銀座の解説では、紀元前5000年ごろのエジプトで日時計が使われていたとされ、携帯用の日時計まで作られていたと紹介されています。

もっとも、いつ生まれたのかは資料によってずいぶん違います。ブリタニカ百科事典は、影で時を知るグノモン自体は紀元前3500年ごろにさかのぼる一方で、現存する最古の日時計はエジプトの緑色片岩でできた前8世紀ごろのもの、と書いています。調べていて少し戸惑ったのは、この「最古」がどれを指すかで年代が数千年単位でずれることでした。棒を立てて影を見る、という行為のどこからを「時計」と数えるかは、思ったよりあいまいなようです。

ともあれ、向きの話に必要なのは精密な年代ではありません。大事なのは、日時計がどの土地で使われ始めたか、です。

影はどちらへ回るか

太陽は東から昇り、南の空を通って西へ沈みます。北半球での話です。

棒の影は、その太陽と正反対の側へ伸びます。朝、東の低い空に太陽があれば、影は西を指す。正午、太陽が真南の高みに来ると、影は北へ向かって短く落ちる。夕方、西に傾いた太陽は、影を東へ長く投げかけます。つまり影の先は、一日のあいだに西から北を経て東へと移っていきます。

これを真上から見おろしてみます。地図と同じく北を上に置けば、西は左、北は上、東は右です。影の先端は左から上、そして右へ。私たちが「右回り」と呼ぶ動きそのものです。セイコーミュージアムも、北半球のエジプトでは棒の影が右回りに動くため、これが時計の針の向きの背景になったと説明しています。

ここで一つ確かめておきたいのは、この右回りが、緯度ではなく半球で決まっているということです。北半球なら、エジプトでもヨーロッパでも日本でも、影は同じように右へ回ります。太陽が南の空を通るかぎり、向きは変わりません。

機械が受け継いだ向き

影の時計から、歯車の時計へ。日本時計協会によれば、西暦1300年ごろのヨーロッパで、重りを動力にし、棒てんぷと冠歯車からなる脱進機で歯車を少しずつ回す機械時計が生まれました。教会の塔に据えられたこれらの時計が、機械式時計の時代を開きます。

このとき、文字盤の数字をどちら回りに並べるかは、原理的にはどちらでもよかったはずです。けれど時計職人たちは、人々が見慣れていた日時計の影の動き――右回り――を、そのまま針の向きに採りました。わざわざ新しい向きを発明する理由は、ありませんでした。

もし南半球で生まれていたら

ここで素朴な疑問が出てきます。南半球ではどうなるのか。

南半球では、太陽は北の空を通ります。そのため棒の影は、北半球とは逆に、左回り――反時計回り――に動きます。歴史系メディアの History Facts も、南半球の日時計は私たちのいう反時計回りの動きになる、と指摘しています。

だとすれば、時計の右回りは必然ではなく、生まれた場所のくせを引きずった結果だと言えます。日時計を作り、やがて機械時計を発展させた古代エジプト、メソポタミア、そしてヨーロッパは、いずれも赤道より北にありました。順番が、たまたま逆ではなかっただけ。もし時計を生んだ文明が南半球にあったなら、「時計回り」という言葉は、いまと反対の向きを指していたかもしれません。地図の上をどちらに取るかが土地ごとに違ったように、針の向きも、生まれた半球しだいでした。

右回りでない時計

おもしろいのは、右回りが世界を覆ったあとも、反時計回りの時計がぽつぽつと生き残っている点です。

一つは、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の内壁にある時計です。画家パオロ・ウッチェロが1443年に手がけたもので、針は1本だけ。文字盤には24時間のローマ数字が、反時計回りに並んでいます。当時のイタリアで使われた「イタリア式時間」にもとづき、一日は日没を24時として終わる仕組みでした。針が下から左へ回りはじめるこの数え方は、18世紀ごろまで使われたといいます。私たちの12時間・右回りとは、土台からして別の時計でした。

写真:Paolo Uccello「フィレンツェ大聖堂の24時間時計」 / Wikimedia Commons / CC0

もう一つは、プラハのユダヤ人市庁舎に掛かる時計です。文字盤の数字はヘブライ文字。ヘブライ語が右から左へ書かれるのに合わせて、針も反時計回りに進みます。記録では18世紀の半ば、1764年にプラハの時計職人が作ったとされます。同じ建物の塔には、ローマ数字で右回りの時計も別に掛かっています。向きの違う二つの時計が、ひとつの壁で隣り合う格好です。文字をどちらから読むかが、針をどちらへ回すかまで連れていく。個人的には、ここがいちばん腑に落ちる例でした。

写真:Richard Mortel「プラハ旧ユダヤ市庁舎の時計」 / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

そもそも、いまの「12個の数字を等しい間隔で右回りに並べる」形に落ち着くまで、時間の数え方自体がそろっていませんでした。日の出から日没までを12等分する不定時法では、一刻の長さが季節で伸び縮みします。ブリタニカによれば、季節で変わる時間に代わって長さの等しい時間が広まるのは、おおむね13世紀ごろのこと。針の向きだけでなく、数字の数も時間の刻み方も、最初からひとつに決まっていたわけではありません。

向きに残る、北の影

私たちが当たり前に従っている右回りは、北半球の地面に落ちた影の動きを、機械が受け継ぎ、世界へ広めたものでした。逆回りでも時計は動く。現にフィレンツェにもプラハにも、別の向きを選んだ時計が残っています。

時計の針をぐるりと一周ながめるとき、その矢印が指しているのは時刻だけではありません。日時計を立てた人々が、どちらの半球で空を見上げていたか――向きそのものが、生まれた土地の緯度を、静かに覚えています。

参考・出典

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