阪神間モダニズムとは何だったのか——私鉄が郊外に育てた、洋館と洋装の生活文化

阪神間モダニズムとは何だったのか——私鉄が郊外に育てた、洋館と洋装の生活文化 歴史

芦屋や夙川のあたりを歩いていると、古い洋館にふいに出会うことがあります。白い壁に赤い瓦、アーチを描く窓。どうしてこんな邸宅が、大阪と神戸にはさまれたこの一帯に、これほど集まっているのでしょうか。

その背景にあるのが、「阪神間モダニズム」と呼ばれる時代です。大正から昭和の初めにかけて、大阪と神戸のあいだの丘陵地に、それまでの日本にはなかった暮らしの文化が芽生えました。洋館に住み、洋服を着て、洋食を口にする。郊外に家を構え、電車で街へ通う。いまではあたりまえになった生活様式の、いわば原型がここにあります。

大阪と神戸のあいだ、という場所

この文化圏の中心になったのは、Wikipediaの「阪神間モダニズム」の項目によれば、西宮市・芦屋市と、神戸市の東部です。東に商工業の街・大阪、西に開港地・神戸。その二つの大都市にはさまれ、背後には六甲山が迫り、南には大阪湾が開けています。山の斜面を少し登れば見晴らしがよく、海から風も通る。煙と人いきれに包まれた大阪の中心で財を成した商工業者たちが、住むならこちらへ、と考えたのは自然な成り行きでした。

電車が住宅地を運んできた

とはいえ、丘の上に家を建てても、街まで通えなければ話になりません。それを可能にしたのが、私鉄です。

阪神電気鉄道の本線が開業したのは1905年。続いて1910年、のちの阪急電鉄となる箕面有馬電気軌道が宝塚本線を開き、1920年には阪急神戸本線が走り始めます。海沿いと山手に2本の動脈が通り、大阪と神戸が短い時間で結ばれました。

ここで動きが面白くなるのが、阪急を率いた小林一三のやり方です。彼は線路を敷いて乗客を待つのではなく、乗客のほうを自分でつくり出していきました。まず1910年、沿線の土地を割賦販売、つまり分割払いで分譲します。家を一括では買えない人にも手が届くこの売り方は、日本で初めての試みだったといわれます。郊外に持ち家を、という夢を、月々の支払いに変えて差し出したわけです。

仕掛けはそれだけではありません。1914年には、温泉地の余興から宝塚少女歌劇を立ち上げます。沿線へ人が出かける理由を、自前でこしらえてしまったのです。1924年には宝塚大劇場が開場し、同じ年、海側では阪神電鉄が甲子園球場をつくりました。極めつけは1929年、梅田の駅に開いた阪急百貨店です。鉄道会社がみずから百貨店を営むのは、世界でも初めてのことだったと伝えられます。住む人を運び、遊ぶ場所へ運び、買い物にも運ぶ。

洋館とスパニッシュの瓦

移り住んだ人たちは、新しい時代にふさわしい家を求めました。そうして阪神間には、いまも名の残る洋館が建ちます。

代表格が、芦屋のヨドコウ迎賓館、もとの山邑家住宅です。設計したのは、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト。竣工は1924年で、1974年には国の重要文化財に指定されました。栃木県産の大谷石をふんだんに使った装飾が見どころで、ライトが日本を去ったあとの実施設計は、弟子の遠藤新らが引き継いでいます。調べていて意外だったのは、その遠藤新が、1930年に完成した甲子園ホテルも手がけていたことでした。師の流れをくむ建築家が、阪神間に二つの名建築を残していたわけです。

ラジオ関西の阪神間モダニズム建築の解説には、ほかにも1927年に片岡安が手がけた芦屋仏教会館が挙がっています。鉄筋コンクリート造の、当時としては思いきった建物でした。この頃、白い壁に赤い瓦をのせたスパニッシュ・スタイルが流行し、和と洋を溶け合わせた邸宅もさかんに建てられました。

移り住んだ人たちの暮らし

家のかたちが変われば、暮らしも変わります。和装から洋装へ、食卓には西洋料理が並ぶ。そんな新しい風俗が、この一帯から広がっていきました。

その空気を文学に刻んだのが、谷崎潤一郎です。1923年の関東大震災のあと、谷崎は関西へ移ります。腰かけのつもりが、阪神間での暮らしは30年近くに及びました。神戸・住吉の倚松庵にいた時期に書き始めたのが、長編『細雪』です。阪神間に暮らす旧家の四姉妹を主人公に、花見や蛍狩り、晴れ着の支度といった穏やかな日々が、ていねいに綴られていきます。

もっとも、その道のりは平坦ではありませんでした。1943年に連載が始まると、ぜいたくな場面が多いとして軍部にとがめられ、ほどなく中止に追い込まれます。全編がそろって世に出たのは、戦後の1947年から1948年にかけてのこと。いま芦屋には、1988年に開いた谷崎潤一郎記念館があり、この作家とこの土地の縁を今に伝えています。

震災が引いた、もう1本の線

ところで、「阪神間モダニズムとは何だったのか」と、なぜ過去形で問われるのでしょう。理由のひとつは、1995年の阪神・淡路大震災にあります。

激しい揺れは、この一帯に残されていた古い洋館や邸宅の多くを傷つけ、あるいは失わせました。長い時間をかけて積み上げられた街並みが、わずかなあいだに大きく削られます。残った建物の一つひとつが、いっそう重みをもって語られるようになったのは、それからのことでした。それでも、ヨドコウ迎賓館のように、修復を経て今日まで受け継がれているものもあります。

芦屋の坂道で、白壁に赤瓦の洋館に出会ったら、少し足を止めてみてください。その向こうには、電車が郊外へ夢を運び、海と山のあいだで人びとが新しい暮らしを試していた、つかの間の時代があります。

参考・出典

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