神戸・兵庫

歴史

兵庫県はなぜ五つの国からできているのか——摂津・播磨・但馬・丹波・淡路と、神戸を分ける国境

神戸市は一つの市でありながら、須磨と垂水のあいだで摂津国と播磨国に分かれている。その境は古代の大化の改新までさかのぼり、いまも区境に残る。さらに兵庫県は摂津・播磨・但馬・丹波・淡路という五国の寄せ集め——歴史も風土も違う土地が一県になった理由は、神戸港にあった。
歴史

西国街道とは何だったのか——山陽道の別名と、国道2号に重なる神戸・兵庫の道

神戸の街なかを貫く国道2号は、その多くが江戸時代の西国街道と重なっている。古代の山陽道を引き継いだこの脇街道は、名前すら一定しない不思議な道だった。兵庫津では繁栄ゆえに直角に折れ曲がる。神戸・兵庫を通った西国街道の来歴をたどる。
歴史

明石の子午線はなぜ「日本標準時」の基準になったのか——標準時が先に決まり、明石は後から名乗った

「明石に子午線が通るから、東経135度が日本の標準時になった」と思われがちですが、順序は逆です。先に東経135度が標準時と決まり、その線上にたまたま明石があった。しかも線が通る町は12もある。それでも明石が「子午線のまち」になったのは、地理ではなく、1人の数学者と、自腹で標識を建てた教員たちのおかげでした。
言葉

地名に残る港の言葉——「津」「泊」「浦」「湊」が描く海の地図

大津、博多、津々浦々——日本の地名には、船が泊まった場所を指す古い言葉がいくつも残っています。「津」「泊」「浦」「湊」。よく似た意味の四語が、地図の上ではきれいに違う場所に散らばる。その分布をたどると、古代の海の道がうっすら浮かび上がってきます。
歴史

六甲山はなぜハイキングの山になったのか——神戸の外国人が開き、市民の日課になった山歩き

神戸の市街地のすぐ北にそびえる六甲山は、休日も平日の早朝もハイカーでにぎわう山です。なぜここまで「登る山」になったのか。港を開いた神戸にやってきた外国人が別荘やゴルフ場を開き、毎朝山に登る習慣まで持ち込み、それを市民が受け継いでいった歴史をたどります。
歴史

阪神間モダニズムとは何だったのか——私鉄が郊外に育てた、洋館と洋装の生活文化

芦屋や夙川を歩くと、白壁に赤瓦の古い洋館がふいに現れます。なぜ大阪と神戸のあいだのこの一帯に、洋館が集まっているのか。大正から昭和の初めにかけて、阪神電鉄や阪急が郊外の丘に住宅地を開き、洋館に住み洋服を着る新しい暮らしが花開きました。「阪神間モダニズム」と呼ばれた文化圏が、どんな地理と鉄道と人の上に成り立っていたのかをたどります。
歴史

神戸の外国人居留地はなぜあそこにできたのか——「兵庫開港」と呼ばれた、3.5キロ東の砂地

開国のとき外国に開かれたのは、当然「神戸」だった——そう思いがちですが、幕府が条約で約束した開港地は神戸ではなく「兵庫」でした。しかも実際の外国人居留地が築かれたのは、その兵庫の中心から東へ3.5キロ離れた砂地の神戸村。京都に近い港を嫌った朝廷、水深を測った英国公使、上海帰りの技師が引いた碁盤の目——「兵庫開港」と呼ばれながら神戸にできた居留地の理由をたどります。
歴史

平清盛はなぜ神戸に港を作ったのか——都に近い港と、海に沈めた経文の石

平清盛は私財を投じて神戸の港・大輪田泊を整えました。船を悩ませた南東の風をふせぐため、海に石を沈めて人工島まで築いています。狙いは、宋の船を博多で止めず瀬戸内海の奥、都のすぐ近くまで引き込むこと。法皇に宋人を引き合わせて貴族を仰天させた賭けから、福原遷都の夢、清盛の死後に兵庫津・神戸港へと受け継がれた港の来歴までをたどります。
歴史

灘の酒はなぜ「辛口」なのか——宮水の硬さと、江戸がえらんだ味

菊正宗も白鶴も、灘の酒はそろって「辛口」を看板にします。その辛さは、西宮で湧く硬い水「宮水」の化学と、はるばる江戸まで運ばれた市場の事情が重なって生まれたものでした。水を入れ替えて味の謎を突き止めた酒蔵の話から、樽廻船が運んだ年間100万樽の酒まで、灘が「男酒」になった理由をたどります。
歴史

菟原処女伝説はどう変容したのか——万葉の挽歌から能・鷗外へ、書き換えられた娘の死

二人の男に求婚され、選べずに死んだ娘。神戸・東灘の処女塚古墳に重ねられた菟原処女の物語は、万葉集の挽歌から『大和物語』、能『求塚』、森鷗外の戯曲へと1200年かけて語り直されてきました。骨組みは変わらないのに、娘の死の理由と意味だけが時代ごとに書き換えられていく。その変容をたどります。