「、」と「。」。私たちが文章を書くとき、ほとんど意識せずに置いているこの二つの記号は、いつから日本語にあったのでしょうか。
学校で読んだ古文を思い出してみます。教科書の本文には、きちんと句読点が振られていました。けれどもあれは、現代の編者が読みやすいように補ったものです。もとの写本にはありません。『源氏物語』の古い写本も、近世の版本も、文字がほとんど切れ目なく連なっていきます。
句読点は、日本語そのものと同じだけ古いわけではありません。むしろ、かなり新しい道具です。
「点」はあったが、句読点ではなかった
では、文の切れ目を示す記号が一切なかったのかというと、そうでもありません。ただ、その役割が今とはずいぶん違いました。
漢文を日本語の語順で読み下すために、漢字のまわりに点や線を書き込む工夫は、早くからありました。代表的なものがヲコト点(乎古止点)です。漢字の四隅や周辺のどこに点を打つか、その位置と形によって「を」「こと」といった助詞・助動詞や活用語尾を表しました。平安時代のはじめにはすでに用いられており、流派が出そろうのは十世紀から十一世紀にかけてだとされます。ちなみに「てにをは」という言い方は、この点に振られた位置の名残です。
おもしろいのは、ヲコト点が流派ごとに打ち方を変えていたことです。やがて自分の流儀を他派に知られまいとして、半ば秘伝のように扱われた時期さえありました。読解を助けるための記号が、いつのまにか家の秘密になっていたわけです。鎌倉以降は次第にすたれていきます。
そもそも文中に打つテンやマルそのものは、中国から伝わったと考えられています。文章を読むときの区切りを示す符号が、宋代の文献などにすでに見えています。
ここで見落とせないのは、これらが「文を読み解くための点」であって、「文の構造を誰にでも示すための句読点」ではなかったことです。打つ人にも読む人にも一定の知識を前提にした、いわば内輪の記号でした。
切れ目なしで、なぜ読めたのか
句読点なしで、人々はどう読んでいたのでしょうか。
理由のひとつは、音読が当たり前だったことにあります。声に出して読めば、息の切れ目がそのまま文の切れ目になります。文章は黙読して目で処理するものというより、読み上げて耳で追うものでした。区切りは紙の上の記号ではなく、読み手の身体の側にあったわけです。
江戸時代になると、版本のなかにテンやマルらしき符号もぽつぽつ現れます。とはいえ、テンだけのもの、マルだけのもの、「・」のような今では使わない印を交ぜたものと、まちまちでした。必ず付けるという決まりはなく、書き手や版元の判断に委ねられていた、と言ったほうが実情に近いでしょう。
「、」と「。」はどこから来たのか
そもそも、文に点を打って音読の休止を示す発想は、日本に限ったものではありません。古代ギリシアでは、文章を声に出して読むときに息を継ぐ場所を示すために点が使われた、と言われます。区切りの記号は、読み上げる文化と分かちがたく結びついていたのです。
日本で風向きが変わったのは明治でした。
西洋の本には、ピリオドやコンマといった句読法(punctuation)が整然と並んでいます。文の終わりはピリオド、語句の切れ目はコンマ。その作法に触れた例は江戸後期にもあり、蘭学者の大槻玄沢は『蘭学階梯』(一七八八年)でコンマやピリオドの使い方を紹介しています。やがて翻訳や教育の現場で西洋の文章に日々向き合う人々が、日本語の文にも切れ目を示す記号が要る、と考えるようになります。今の句読点は、この西洋の句読法を下敷きにして広まったものです。
教育の場では、国語読本から作文の教科書へと、句読点の使い方が少しずつ持ち込まれていきました。転機になったのが、明治三十七年(一九〇四年)の「国定読本編纂趣意書」と、明治三十九年(一九〇六年)三月に文部省の大臣官房図書課がまとめた「句読法案」です。後者は国定教科書の句読点の基準として作られ、符号で文と文、語と語の関係を明らかにすることを目的としました。国が句読点の打ち方の標準を公に示した、最初の文書です。
当時の混乱ぶりは、文人の言葉にも残っています。芥川龍之介は、自分たちは「句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代」に生まれた、と書きました。標準が示されたとはいえ、書き手の感覚にはまだ大きな幅があったのです。
子どもの作文に残った変化
この移り変わりが、思いがけない場所にくっきり残っています。子どもの作文です。
明治・大正期の初等教育における句読法を調べた研究によれば、明治三十年代の児童作文は、句読点をまったく使わないか、一種類しか使わないものが大半でした。それが明治四十年代になると、現行に近い使い分けをするものが多数派へと急速に変わり、大正のあいだに定着していきます。制度として教えられた句読法が、十数年をかけて子どもの手もとへ降りていった——その過程が、答案用紙の上に標本のように残っているわけです。大人がいつ切り替えたかを直接たどるのは難しくても、教室の作文ならば年ごとの変化が見える。句読点の歴史を語るうえで、これはなかなか得がたい証拠です。
読点が「,」だった七十年
ところが、話はここできれいに終わってくれません。
戦後の昭和二十一年(一九四六年)、文部省は「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」をまとめます。句点・読点・中点といった符号の使い方を、豊富な例文とともに示したものです。ここで横書きについては、テンの代わりにコンマ「,」を用いる、と定められました。縦書きは「、」、横書きは「,」という線引きです。
この方針は長く尾を引きました。昭和二十七年(一九五二年)の「公用文作成の要領」も、横書きの読点に「,」を引き継ぎます。役所の横書き文書で読点がコンマになっているのを見て、奇妙に感じたことのある人もいるかもしれません。あれは気まぐれではなく、七十年ものあいだ生きていた公式の作法でした。
向きが変わったのは、ごく最近です。令和四年(二〇二二年)一月、文化審議会は「公用文作成の考え方」を建議し、長く続いた「公用文作成の要領」に代わる手引きとしました。ここで横書きの読点は、原則として「、」を用いる、と改められます。「,」も認めるけれど、一つの文書のなかではどちらかに統一する——コンマの時代に、ようやく区切りがついたことになります。
それで、「正しい」打ち方はあるのか
最後に、見落とされがちな事実をひとつ。
これだけ制度が積み重なっても、読点をどこに打つかについて、すべての書き手を縛る厳密な規則は、いまも存在しません。明治の「句読法案」も、戦後の「くぎり符号の使ひ方」も、結局は「案」のまま正式には決定されませんでした。教科書や公用文がそれを参考にしてきた、というのが実情です。
ですから、同じ内容でも書き手によって読点の数はずいぶん変わります。多めに打つ人、ほとんど打たない人。国立国語研究所も、読点は日本語の文法のうえでどこに打てば分かりやすいかという目安で考えるもので、ただ一つの正解があるわけではない、という趣旨の説明をしています。
千年以上前、漢文を読み解くために打たれた小さな点。それが西洋の記号と出会い、教科書を通じて子どもに広まり、役所のなかで一度コンマに姿を変え、また戻ってきました。「、」をどこに置こうかと迷うとき、その迷いそのものが、まだ決着していない長い歴史の続きなのかもしれません。
参考・出典
- 文化庁「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」 https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/sanko/pdf/kugiri.pdf
- 文化庁「公用文作成の考え方(建議)」(令和4年1月7日 文化審議会) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/93657201.html
- 坂井晶子「明治・大正期の初等教育における句読法――作文教育を中心に――」『日本語の研究』14巻2号、2018年(J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonokenkyu/14/2/14_84/_article/-char/ja/
- 国立国語研究所 ことば研究館「日本語の文章で読点のルールはどうなっていますか」 https://kotoba.ninjal.ac.jp/qa/yokuaru/qa-53/
- 岩崎拓也「句読法、テンマルルール わかりやすさのきほん 第2回 句読点の成立:戦前・戦後、現代」(未草/ひつじ書房) https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2021/11/02/punc02/
- 法律情報Navi「公用文書『,』から『、』へ」 https://www.legalinfo-navi.net/post-2349/
- ウィキペディア「句読点」 https://ja.wikipedia.org/wiki/句読点
- ウィキペディア「ヲコト点」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヲコト点


