神戸の街を西へ向かって歩いていくと、須磨と垂水のあいだで、いつのまにか「国」をまたいでいます。東は摂津国、西は播磨国。地図のうえだけの話ではありません。両者の境を示す看板が、いまも須磨区と垂水区の境にある旗振山の頂に立っています。
一つの市が、二つの国にまたがっています。神戸市はそういう街です。さらに範囲を広げて兵庫県全体を見渡せば、話はもっとややこしくなります。摂津・播磨・但馬・丹波・淡路——県はぜんぶで五つの旧国の寄せ集めなのです。
なぜ、こんな分かれ方をしているのか。
畿内の西の果て
摂津と播磨の境が須磨のあたりにある、というのは、思いつきで引かれた線ではありません。さかのぼると、7世紀半ばの大化の改新の詔に行き着きます。
神戸市西区が公開している地域の歴史によると、この詔で、赤石(いまの須磨浦公園のあたり)の櫛淵が「畿内の西の限り」と定められました。都を中心とする畿内の、いちばん西の縁がここだったわけです。畿内に含まれる摂津と、その外側に広がる播磨。その境目が、須磨の海辺に引かれました。
ここは古代の山陽道が畿内へ入っていく関門でもありました。西区の多井畑は、ちょうどその通り道にあたります。都から西へ下る人にとって、須磨を過ぎることは「畿内を出る」ことを意味した——須磨が古くから、歌や物語で「都のはずれ」として描かれてきたのも、おそらく無関係ではありません。
おもしろいのは、この境がその後ほとんど動かなかったことです。
旗振山の看板
時代は下って、豊臣秀吉の太閤検地。神戸新聞の記事は、摂津と播磨の国境がこの全国測量で改めて決められた、と紹介しています。古代に引かれた線を、近世にもう一度なぞったかたちです。
そしていまも、その線は消えていません。須磨区と垂水区の境にそびえる旗振山——標高はおよそ253メートル——の山頂には、「摂津」「播磨」と記された国境の看板が立っています。かたわらには「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」という芭蕉の句碑も。千年以上前の境界が、行政区の境という形でそのまま生き残っています。山に登らなければ気づけない種類の歴史です。
一つの市に、二つの国
では神戸市のどこからどこまでが、どちらの国だったのでしょう。
ざっくり言うと、東側——灘区・東灘区・中央区・兵庫区・長田区と、須磨区の海沿い——が摂津です。古代の郡でいえば、菟原郡や八部郡にあたります。一方、西側の垂水区と西区は播磨国明石郡。広い北区にいたっては、大部分が摂津でありながら淡河町のあたりは播磨と、市内で国境が入り組んでいます。
つまり「神戸はどこの国か」という問いには、ひとつの答えがありません。住む区によって、先祖がまたいでいた国が違う。同じ神戸市民でも、出自をたどれば摂津の人と播磨の人に分かれてしまうわけです。
五つの国の、寄せ集め
神戸市の中だけでこれですから、兵庫県全体ともなれば筋金入りです。
県域には、摂津(の西部)・播磨・但馬・丹波(の一部)・淡路という五つの旧国が含まれます。しかも摂津は東半分が大阪府、丹波は大半が京都府で、兵庫県が引き取ったのはそれぞれの一部だけ。丹波にいたっては氷上・多紀の二郡、いまの丹波市と丹波篠山市の範囲にすぎません。
この五国、気候も産物もまるで違います。日本海に面した但馬は但馬牛や松葉ガニ、内陸の丹波は黒豆や栗、瀬戸内に浮かぶ淡路は食材の島、播磨には姫路城を擁する城下の歴史があり、摂津の南端には神戸の港町が広がります。県をあげて「五国」という言い方で売り出しているくらいで、まとまりのなさは、もはや個性として扱われています。
歴史も風土も違う五つの土地が、なぜ一つの県になったのか。ここがこの話のいちばんの山です。
港のために、束ねられた
答えは、神戸港にあります。
慶応3年の12月7日(西暦では1868年の元日)、兵庫つまり神戸が国際貿易港として開港します。明治の新政府にとって、この港をどう育てるかは、国の浮沈にかかわる課題でした。
廃藩置県のあと、いまの兵庫県域は兵庫・飾磨・豊岡・名東の四つの県に分かれていました。播磨は飾磨県、但馬と丹波の一部は豊岡県、淡路は名東県、という具合です。これが一気にまとめられたのが、明治9年(1876年)8月のこと。飾磨県(播磨全域)と、豊岡県の一部(但馬全域と丹波の氷上・多紀二郡)、名東県の一部(淡路全域)が、兵庫県へ併合されました。ここで、現在に近い県域が出来上がります。
なぜ、神戸の港町を抱える兵庫県に、これだけの土地を継ぎ足したのか。兵庫県のサイトに、その手がかりがありました。明治政府の中心にいた大久保利通が、豊岡県令の櫻井勉に、「開港場である兵庫県の力を充実させるように」と指示した、というのです。開港場を抱える県を強くするために、まわりの豊かな地域をまとめて持たせる。播磨の米どころ、但馬の山と海の幸——そうした富を後ろ盾にして、神戸港を国際港へ押し上げようという算段でした。
言いかえれば、兵庫県のまとまりのなさは、失敗ではなく設計です。歴史も風土も違う土地を、あえて一つに束ねた。港のために引かれた、人工的な県の輪郭でした。
須磨から垂水へ、坂をひとつ越えれば、もう別の国。その小さな段差の向こうには、畿内の西限を定めた古代の詔と、港に賭けた明治の国策が、地続きで控えています。神戸を歩くとき、足の下を一本の古い線が走っていることを、ときどき思い出します。
参考・出典
- 兵庫県「県域の変遷」 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk32/pa13_000000013.html
- 兵庫県「県域の歴史」 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk32/pa13_000000011.html
- 神戸市「西区の歴史 古代」 https://www.city.kobe.lg.jp/k25836/kuyakusho/nishiku/shokai/introduction/history/02_kodai.html
- 神戸新聞NEXT「摂津と播磨の国境『旗振山』は絶景ポイント 神戸」 https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?url=news/odekake-plus/news/pickup/201808/11578069
- 現代ビジネス(講談社)「丹波、摂津、但馬、播磨、淡路…5つの個性が際立つ『兵庫』ってどんな場所?」 https://gendai.media/articles/-/125973
- ウィキペディア「摂津国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/摂津国


