ペストはなぜヨーロッパを変えたのか——黒死病後に動いた賃金と信仰

歴史

黒死病、と聞いてまず浮かぶのは、病そのものの恐ろしさかもしれません。14世紀のヨーロッパで、人口の3割から、ところによっては半分以上を奪ったとされる大疫病です。けれど、この出来事が歴史の節目として語り継がれるのは、死者の多さだけが理由ではありません。

むしろ、生き延びた人々の暮らしが、そのあとどう変わったか。そこに、後の世まで尾を引く話があります。

人が大量にいなくなると、残った人の働きの値段が上がる。言葉にしてしまえば当たり前のような力学に、中世ヨーロッパの社会はずいぶん大きく揺さぶられました。賃金、土地、信仰、そして人が人をどう扱うか。順を追って見ていきます。

船が運んできたもの

ペスト菌(Yersinia pestis)は、もともとネズミなどげっ歯類に巣くう細菌で、ノミを介して人に移ります。国立健康危機管理研究機構の感染症情報サイトによれば、リンパ節が腫れて高熱の出る腺ペストのほか、肺をやられると血の混じった痰を吐き、飛沫でうつる肺ペストへ進むこともあります。後者は死亡率がとりわけ高い。中世の人々が見たのは、腫れ上がるリンパ節、高熱、そして急死——場合によっては肺まで冒される、激烈な症状でした。

ヨーロッパへの到達は、1347年です。きっかけとして史料に残るのは、クリミア半島の港町カッファでの出来事でした。この町を包囲していたタタール軍が、攻めあぐねた末にペストで死んだ兵の遺体を城内へ投げ込んだ——ガブリエレ・デ・ムシスという人物がそう書き残しています。この逸話は有名ですが、現在では事実性を疑う見方もあります。ともあれ、ここを拠点にしていたジェノヴァ商人が西へ逃げ、菌を運んだとされます。

その年の10月、まずシチリアのメッシナが襲われ、ついでジェノヴァ。翌1348年にはアヴィニョンやフィレンツェ、年末にはロンドンへ。北上してポーランドへ、1351年にはロシアへと達します。地中海交易のネットワークが、そっくりそのまま疫病の経路になりました。

ちなみに、ペスト菌による大流行としてヨーロッパが経験したのは、これが歴史上2度目にあたります。最初は6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの時代に地中海世界を襲った疫病でした。間隔は800年ほど。当時の人にとっては記憶どころか、伝承の彼方の災いです。備えようがなかった、と言ったほうが正確かもしれません。

どれだけの人が消えたのか

被害の数字は、地域や研究者によってかなり幅があります。人口史家ラッセルはヨーロッパ全体で約25%の喪失を見積もり、もっと高く見る研究では45〜60%に達したとするものもあります。

都市の記録には、もっと生々しい数字が残っています。フィレンツェは、ペスト前に11万〜12万を数えた人口が、1351年には5万ほどに落ちたとされます。シエナでは、周辺をふくめた人口9万のうち8万が失われ、死亡率は8割に達したと見られています(郊外へ逃げた人を含む数字なので、額面どおりではないにせよ)。パリでも18万の住民のうち5万が犠牲になったと伝わります。

数字を並べるとかえって実感が遠のくので、ひとつだけ言葉を引きます。シエナの年代記を書いていたアニョーロ・ディ・トゥーラは、こう記しました。鐘も鳴らず、祈る者もいないまま死者が溝に投げ込まれていく町で、「わたくし自身の手で、わが子5人を埋めた」と。記録を残す立場の人間が、自分の子を5人とも葬っている。そういう密度の死でした。

人手が足りない、という事態

さて、ここからが本題です。

これだけ人が減ると、社会は単純な、しかし強い圧力にさらされます。畑を耕す人、家畜を世話する人、職人——要するに働き手が、足りない。土地はあり余っているのに、それを使う人がいない。労働の希少性が一気に跳ね上がりました。

結果として何が起きたか。賃金が上がりました。イングランドのウィンチェスター司教領に残る農業労働賃金の統計を、経済史家ポスタンが整理しています。1300〜1319年を100とすると、農業労働者の実質賃金(同じ賃金で買える小麦の量で測ったもの)は、1380〜1399年には188まで上がっています。ざっと2倍です。逆に小麦そのものの値段や地代は下がり、土地を貸す側はむしろ借り手を探さねばならなくなりました。トスカナでは、地主が農具や種子、牛まで提供したうえで収穫を折半する分益小作(メッツァドリア)の慣行が、このころ広まっていきます。

支配する側は、当然これを嫌がります。イングランドでは1349年の勅令に続いて、1351年に労働者規制令(Statute of Labourers)が出されました。賃金をペスト前の水準に据え置け、という法律です。けれど、効きませんでした。個人的に意外だったのは、王権が法でもって賃金を押さえつけようとして、しかも失敗している、という点です。人手が足りないという現実の前では、お触れの効力のほうが先に尽きた。

そして1381年、ワット・タイラーに率いられた大規模な一揆が起こります。重い人頭税が引き金でしたが、根にあったのは、立場が変わったことを自覚した農民たちの圧力でした。賃金のピークがちょうどこの1380年代に来ているのは、偶然ではないでしょう。

ここで気をつけたいのは、「だから封建制は終わった」と一直線に言ってしまわないことです。西ヨーロッパでは、賦役で縛られた農奴が金納の自由な農民へと変わっていく流れが確かに進みました。一方で領主の側も手をこまねいていたわけではなく、強制を締め直そうとする動き——封建反動と呼ばれます——もあちこちに現れます。地域によって、ねじれ方はだいぶ違いました。

それは本当にペストのせいか

ここまで読むと、ペストが社会を作り変えた、という話に聞こえます。半分は当たっていて、半分はおそらく言いすぎです。

先ほどのポスタンは、イングランドの農業危機の始まりを、ペスト到来より前の1320年代に置いています。13世紀に人口が伸びすぎ、土地に対して人が過剰になっていた。その反動としての収縮が、すでに始まっていた、というわけです。だとすればペストは、なかった流れを生み出したというより、すでに傾きかけていたものを一気に押した、ということになります。

賃金が最も跳ねた時期についても、見方が割れます。コスミンスキーという研究者は、賃金の最大の飛躍が人口減少のさなかではなく1380〜1399年に来ている点を捉えて、これは1381年の一揆に示されたような、労働者が自分の取り分を守ろうとした力の結果だ、と論じました。人が減ったから機械的に上がった、という説明では足りない。値段は、需給だけでなく、抗った人々の意志によっても動いた——という読み方です。

歴史を一つの原因で説明できると、話はきれいになります。けれど、当の研究者たちがこれだけ議論を続けているという事実そのものが、単線で語れないことを物語っているように思います。ペストは強力な触媒でした。触媒は反応を速めますが、何もないところから物質を生み出すわけではありません。

神は沈黙していた

経済の話を続けてきましたが、人々の内面に起きたことも、それに劣らず大きなものでした。

これだけの死を前に、教会は無力をさらしました。祈っても、聖職者が立ち会っても、人は等しく死んでいく。むしろ臨終に付き添う聖職者ほど感染して命を落とし、空席になった教区も多かった。神に最も近いはずの人々が真っ先に倒れていく光景は、教会の権威に静かな、しかし深い亀裂を入れました。

ある人々は、病を「神の罰」と受け取りました。14世紀のヨーロッパでは、贖罪のしるしに自らの体を鞭で打ちながら町から町へ行進する、鞭打ち苦行者の集団が現れます。罰を先回りして引き受ければ、神の怒りも和らぐだろう——そういう論理だったのでしょう。

そして、もっと暗い反応もありました。「ユダヤ人が井戸に毒を入れたせいだ」という噂が広がり、各地でユダヤ人が襲われます。1349年2月のストラスブールでは、2000人ともいわれるユダヤ人が殺されました。同じ年の夏にはマインツやケルンの共同体が壊滅し、1351年までに200を超える共同体が消えたと伝わります。生き延びた人々の多くは東のポーランドへ逃れ、カジミェシュ大王に迎え入れられました。

恐ろしいのは、この迫害の多くが、ペストの被害が現実に町を襲う前に起きていたことです。原因のわからない災いを前に、人は説明を欲しがり、しばしば最も身近な少数者にそれを押しつける。病の正体は500年以上のちにようやく細菌として突き止められますが、当時の人々が手にできたのは噂と恐怖だけでした。

40日間

最後に、思いがけず後世に残ったものの話を。

人の往来が病を運ぶ、ということだけは、原因がわからなくても経験的に理解されていきました。船を一定期間、港の外に足止めしてから上陸を許す。アドリア海に面したラグサ(現在のドゥブロヴニク)では、1377年に30日間の停留が定められました。のちに各地で停留期間は40日へと延び、この「40日間」を意味する語から、検疫を指す英語 quarantine が生まれます。

なぜ40日だったのかには諸説あって、キリスト教で40という数が帯びる意味あいも指摘されますが、ともあれ、現代の感染症対策の遠い祖先が、このパンデミックのただ中で形になりました。賃金の高騰や信仰の動揺と並んで、これもまた黒死病がヨーロッパに残した変化のひとつです。

これだけの死をくぐり抜けた社会は、もとの形には戻りませんでした。働き手の値段が上がり、土地と人の結びつきがゆるみ、教会の声が一段小さく聞こえるようになる。そのどれもがペスト一つで決まったわけではありません。けれど、ペストがなければこの速さでは進まなかった。災いが社会の何を変えたのかは、たいてい、それが過ぎ去ってからしか見えてこないものです。

参考・出典

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