「○○富士」はなぜ生まれたのか——見立てと信仰が広げた、ふるさとの山

歴史

自分の暮らす土地にも、たぶん一つはあります。津軽富士、讃岐富士、薩摩富士。地元の山を「うちの富士」と呼ぶ習慣は日本中にあって、誰もとくに不思議とは思いません。

ところが、いざ「全国にいくつあるのか」「なぜよその山が富士の名を借りたのか」と問われると、答えは思ったよりあやふやです。調べていくと、数すらきちんと確定していません。それどころか、標高35メートルの「富士」まで実在します。

数えてみると、誰も正確には知らない

「○○富士」、いわゆる郷土富士やふるさと富士の数は、よく「全国に400以上」と言われます。地理学者の田代博による集計がもとになっていて、日本国外にもおよそ40か所あるとされます(Wikipedia「郷土富士」)。

ところが、出どころをたどると数はあちこちで揺れます。nippon.com は「全国に300とも400とも言われる」と書きます。静岡県の公式ページにいたっては、本文で「少なくとも340あるといわれている」としながら、同じページの見出しでは「400座以上」と表記しています。県の一ページのなかで、数が合っていないのです。

つまり「400以上」は、誰かが戸籍のように数え上げた公式の統計ではありません。富士に似た山を拾っていけばそのくらいにはなる、という目安です。数え方しだいで増えも減りもします。

標高35メートルの富士

その極端な例を、一つ。

秋田市の明田富士は、標高わずか35メートルで、日本山岳会から「日本一低い富士山」と認定されています。山頂には、その旨を記した標柱まで立っています(Wikipedia「富士山(秋田県)」)。

もとはもう少し大きな丘だったと言い伝えられています。鎌倉のころ、富士太郎と名乗る豪族が館を構え、山頂で富士権現を祀っていた——という話です。江戸時代に久保田城を築くとき、城下町の土盛りに使うため山が削られ、いまは往時の四分の一ほどになったとされます。富士太郎のくだりは裏づけのある史実ではありませんが、土を取るために低くされたという伝えは、いかにも土地の記憶らしくて惹かれます。

ついでに言えば、秋田にはもう一つ、標高ゼロメートルの「富士」もあります。大潟村の大潟富士です。八郎潟を干拓した海抜ゼロメートルの土地に築かれた人工の山で、頂上がちょうど海抜ゼロメートル、まわりからの高さは富士山のおよそ千分の一にあたる3.776メートルにそろえてあります(大潟村役場)。自然の山ではないので明田富士とは別の系統ですが、「ここにも富士がほしい」という気持ちの表れという点では地続きでしょう。

富士に「見える」ということ

富士と呼ばれる理由は、ざっくり言えば二筋あります。形が富士山に似ていることと、富士山信仰につながっていること(Wikipedia「郷土富士」)。とくに形のほうが、わかりやすいようでいて少しおもしろいのです。

郷土富士には富士山と同じ成層火山もありますが、火山でない山も少なくありません。浸食で硬い部分だけが削り残された円錐形の丘——地理学でモナドノックやビュートと呼ばれる残丘です。火を噴いたことのない山が、富士のかたちをしているというだけで富士を名乗っています。

しかも、富士に見えるかどうかは見る方向にもよります。ある角度からは端正な三角でも、回り込むと間延びした稜線だった、ということは珍しくありません。それでも人は、いちばん富士らしく見える側からの姿を選んで名前をつけます。nippon.com は、円錐形の均整のとれた姿に神々しさを感じ、富士山への憧れや信仰の気持ちを託して名づけたのだ、と説明しています。

なぜ富士だったのか

形が似ているだけなら、ほかの有名な山に見立ててもよかったはずです。なぜ、よりにもよって富士だったのでしょうか。ここで富士山信仰の話になります。

富士山のふもとの浅間神社は、たびたび噴火する富士山を鎮めるために、山そのものを神——浅間神、あるいは浅間大神として祀ったものだとされます。その総本宮が、富士宮市の富士山本宮浅間大社です(富士宮市)。文献の上では、『日本三代実録』が貞観元年、西暦859年に駿河国の浅間神へ位階を授けた記録を残しています(Wikipedia「富士信仰」)。少なくとも平安初期には、国家が公に祀る神でした。

祭神は一般に木花咲耶姫命とされますが、これは後世に定着した解釈です。富士の神は、火を鎮める水の神なのか、それとも火中出産の神話につながる火の神なのか。社伝と一般の理解で食い違っていて、性格づけ自体、いまも一つに定まりません。

この信仰には、古い形として遥拝——遠く離れた場所から山を拝む作法があります。浅間大社はもともと、山宮浅間神社のあった場所から大同元年、806年に現在地へ移されたと伝わり(富士宮市)、その山宮のほうは本殿も拝殿も持たず、富士を直接おがむ遥拝の古い姿をいまに残していることで知られています(世界遺産 富士山とことんガイド)。遠くから富士を拝むのが当たり前だったのなら、自分の土地のよく似た山を「富士」と見立てて拝むまでの距離は、そう遠くありません。

なお、富士山信仰の起源を縄文時代までさかのぼる、という言い方を見かけることがあります。これは慎重に扱ったほうがよさそうです。富士宮市には縄文中期の遥拝祭祀場の跡と思われる遺跡があり、千居遺跡などの配石遺構を富士の遥拝に結びつけて考える研究者もいる、というのが実際のところです(世界遺産 富士山とことんガイド/Wikipedia「富士信仰」)。あくまで遺跡の解釈にもとづく推定であって、縄文人が富士を信仰していたと確定したわけではありません。「縄文から」と言い切ると、わかっている範囲より少し先まで踏み込みすぎになります。

江戸が広げた、身近な富士

郷土富士という発想を全国規模で後押ししたのは、江戸時代の富士講だと言っていいでしょう。

富士講は、戦国から江戸初期の長谷川角行を開祖とする、富士信仰の集まりです。六代目にあたる食行身禄が、享保十八年、1733年に断食して入定し即身仏となったことをきっかけに、江戸の庶民のあいだで爆発的に広まりました(国土交通省 中部地方整備局)。

その隆盛ぶりは、江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどでした(国土交通省 中部地方整備局)。もっとも、これは講の数を実際に勘定した統計ではなく、それほど多かったという言い回しと見たほうがいいでしょう。八百八という数字を、そのまま真に受ける必要はありません。

講の信者は、夏の開山期に富士のふもとへ向かい、御師と呼ばれる人たちの世話になりました。御師は信仰の指導者であると同時に宿坊の主で、登拝の案内から宿の手配までを引き受け、宿泊料や山役銭で暮らしを立てていました(国土交通省 中部地方整備局)。

とはいえ、誰もが富士まで行けたわけではありません。長旅は費用も日数もかかり、当時の富士山は女人禁制でもありました。そこで江戸の町々に築かれたのが富士塚です。富士山の溶岩を運んで積み上げた高さ数メートルのミニ富士で、山頂には浅間社を祀ります。これに登れば富士に登ったのと同じだ、とされました(国土交通省 中部地方整備局/Wikipedia「富士講」)。

個人的におもしろいのは、この富士塚です。遠くの山を富士に見立てるだけでは飽き足らず、江戸の人々は溶岩を運んでミニ富士そのものを足もとにこしらえてしまいました。本物の溶岩を使うところに、ただの模型では済ませたくない律儀さがにじみます。いわば、郷土富士を都市のなかに自前で建ててしまったようなものです。

形よりも、見立ての問題

「○○富士」は山の形の話であると同時に、それ以上に人の心の話でもあります。明田富士が35メートルでも、人の手で築いた大潟富士でも富士を名乗れるのは、火山かどうかでも本物に似ているかどうかでもなく、富士に寄せる気持ちのほうが名前を決めてきたからでしょう。

全国の数が300とも400とも揺れたまま定まらないのも、たぶんそのためです。これは誰かが上から数えた台帳ではなく、土地ごとの見立ての寄せ集めなのですから。あなたの近所の「富士」も、どこかの時代に誰かが故郷の山へそっと富士を重ねた、その一つなのだと思います。

参考・出典

タイトルとURLをコピーしました