「津々浦々(つつうらうら)」という言い方があります。全国のすみずみまで、という意味で使うこの言葉は、もとをたどれば「津」と「浦」、海辺の地形を指す二つの語を重ねたものです。日本のすみずみとは、船が立ち寄れる場所のすみずみのことでした。
地図を開くと、海沿いには「津」「泊」「浦」「湊」のつく地名がやたらと多いことに気づきます。大津、博多、焼津、室津、三浦、那珂湊。どれも、船が停泊する場所を指す古い言葉です。意味が近いのに、なぜ四つも言葉があるのか。しかも地名を数えていくと、四語はそれぞれ違う土地に散らばっている。その分布の偏りに、消えた港と古い海路の輪郭が見えてきます。
「津」は、国の港だった
まず「津」。精選版 日本国語大辞典には「船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港」とあります。律令の時代には、国の貢ぎ物を運び出す拠点として管理された「国津(くにつ)」があり、ただの船着き場というより公的な物流の結節点でした。
古代から中世にかけて、とりわけ名の通った三つの港を「三箇(さんが)の津」と呼びます。薩摩の坊津、筑前の博多津、伊勢の安濃津。九州の南端、九州北部、そして東海。日本列島を大きく結ぶ三点が、いずれも「津」を負っています。
このうち安濃津のその後がおもしろい。中世には4,000戸とも5,000戸とも言われる町並みを抱えた大港でしたが、1498年の大地震で港の機能を失います。江戸時代、藤堂高虎が城下町として整え直したとき、町は「安濃津」を縮めた「津」をそのまま名に残しました。三重県の県庁所在地、津市。船着き場を意味するただの普通名詞が、一つの市の名前になっています。
ジャパンナレッジの地名集計によれば、「津」を含む地名は全国で757件。秋田県をのぞきほぼ全国に分布しますが、東北や九州南部ではやや薄く、列島の中ほどに濃く出ます。
「泊」は瀬戸内に五つ並ぶ
「泊(とまり)」も船の停泊地を指します。意味は「津」とほとんど重なる。地名の数はぐっと少なく108件で、分布も偏っています。最も多いのは北海道で29件、ついで青森・鹿児島・沖縄。列島の北の端と南の端に集まる言葉です。
「泊」のほうが「津」より古い言い回しだ、ともされます。ただ、その根拠がどこにあるのかは、いくつかの解説を当たってもはっきりとは書かれていませんでした。語感の問題なのか、文献での初出の差なのか、そこは確かめきれていません。
その「泊」が、北と南に偏るはずなのに、瀬戸内海のまんなかへ点々と並んで残る一群があります。「摂播五泊(せっぱんごはく)」です。
一日航程で並んだ五つの泊
摂津と播磨、いまの兵庫県内に並ぶ五つの泊。東から河尻泊(尼崎市)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、魚住泊(明石市)、韓泊(姫路市)、室生泊(たつの市御津町室津)。資料によっては「室生」を「檉生(むろう)」と書くものもあります。延喜14年(914年)に三善清行が朝廷へ上した『意見封事十二箇条』のなかで、これらは奈良時代の僧・行基が天平年間(729〜749年)に築いたものとして数えられています。
この五つは、ばらばらに置かれているのではありません。いずれも、ほぼ一日航程の間隔で並んでいます。当時の船は夜の航海を避け、日が暮れる前にどこかへ入る。朝に出て夕方たどり着ける距離ごとに泊を設ければ、瀬戸内海を安全に乗り継いでいける。港というより、街道の宿場に近い発想で置かれていたわけです。
五つのなかで、大輪田泊だけは別格でした。文献での初出は弘仁3年(812年)の『日本後紀』で、国の手で修築されたと記されています。古くは「務古水門(むこのみなと)」とも呼ばれ、804年には最澄や空海をのせた遣唐使船がこの界隈から唐へ向かった、と神戸市の港湾史の解説は伝えています。
そして平安末期、平清盛がここに目をつけます。1174年ごろ、沖に「経ヶ島(きょうがしま)」という人工島を築いて波をさえぎり、宋との貿易の拠点に仕立て直しました。教科書で習う日宋貿易の現場は、この泊だったのです。鎌倉時代に入ると「大輪田泊」の名はすたれ、「兵庫の津」と呼ばれるようになります。室町から江戸にかけても「兵庫の津」、そして近代に開港して「神戸港」と名づけられました。同じ水際の呼び名が、千年のあいだに何度も書き換えられています。
浦と「裏」
「浦(うら)」は、ここまでの三語とは毛色が違います。語源は「裏」と同じ。山の向こう、海が陸へ入り込んだ奥まった所、という地形のイメージが先にある。だから「浦」は船着き場の機能だけでなく、入り江そのものや、その奥に開けた海辺の村里まで広く含みます。三浦、浦安、松浦。
地名としては四語のなかで群を抜いて多く、全国1,304件。長崎県の159件が突出し、福井県88件、愛媛県82件と続きます。リアス式の入り組んだ海岸線を持つ西南日本ほど密になる。身を寄せられる入り江の数が、そのまま地名の数になったのでしょう。江戸時代には行政の言葉にもなり、漁業や海運で暮らす集落を「浦方(うらかた)」、農業中心の集落を「村方(むらかた)」と呼び分けています。
水の門
四つ目の「湊(みなと)」は、いまは「港」と書くことが多いものの、もとは別の字です。語源は「水の門(みなと)」。「み」は水、「な」は「の」にあたる古い助詞、「と」は門で、水の出入りする口。『古事記』や『日本書紀』では「水門」と書かれました。
地名としては255件。青森県や鹿児島県に濃く、那珂湊(茨城県)のように東日本にも残ります。「泊」と同じで、列島の縁に多い言葉です。
地図に残った海の道
四つの言葉を地図に重ねると、ぼんやりした模様が浮かびます。ジャパンナレッジの調査は、これを一つの仮説として示しています。「津」は北部九州から瀬戸内海を通って畿内へ至る、大陸との交流の大動脈にそって濃い。「浦」は西南日本へ向かって増えていき、その先に黒潮にのる「海上の道」を思い描ける。「泊」と「湊」は、外から来る文化の影響が比較的薄かった列島の周縁に、古い形のまま残っている――。
裏づけの一つに挙げられているのが「今津」です。全国に22ほどあり、琵琶湖畔の近江今津や、下関をまわって瀬戸内を東へ進み畿内へ向かう近世の西廻り航路の線上などに並んでいるといいます。
その港の多くは、もう物理的には残っていません。難波津は埋め立てられ、いまは大阪の市街地の下です。それでも「難波津に咲くやこの花」と詠まれた歌のなかに、地名は生き続けています。大輪田泊の名は中世に消えましたが、その水際は神戸港として、いまも船を受け入れている。
地名は、見えなくなった風景の案内板のようなものだと思います。普段は読み飛ばしている駅名や住所のなかに、古い海の地図が一枚たたまれて入っている。「津」「泊」「浦」「湊」は、かつてそこに船が立ち寄ったことを、声には出さずに伝えています。
参考・出典
- 神戸市「神戸港の歴史」 https://www.city.kobe.lg.jp/a74134/kurashi/access/harbor/rekishi.html
- 瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会「瀬戸内海の歴史」 https://www.uminet.jp/know/detail.php?id=22
- ジャパンナレッジ「日本列島『地名』をゆく! 第45回 湊・津・泊・浦、……そして今津(1)」 https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=45
- ジャパンナレッジ「日本列島『地名』をゆく! 第46回 湊・津・泊・浦、……そして今津(2)」 https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=46
- コトバンク「津」(精選版 日本国語大辞典ほか) https://kotobank.jp/word/津-536542
- コトバンク「大輪田泊」(改訂新版 世界大百科事典ほか) https://kotobank.jp/word/大輪田泊-39682
- 語源由来辞典「港/湊/みなと」 https://gogen-yurai.jp/minato/


