「敬語」はなぜ三種類では説明しきれないのか——尊敬・謙譲・丁寧と、文化庁が分けた五つ

言葉

「尊敬語・謙譲語・丁寧語」。敬語は三種類――そう習った記憶のある人は、少なくないと思います。テストでは「いらっしゃる」を尊敬語、「伺う」を謙譲語、「です・ます」を丁寧語、と振り分けていく。きれいに三つに収まる、整理された体系として教わりました。

ところが、国がいまよりどころにしている分け方は、三つではありません。五つです。

2007年(平成19年)、文化審議会は「敬語の指針」という答申を文部科学大臣に提出しました。現代の敬語の使い方について、国としての考え方を示した文書です。そこでは、はっきりとこう書かれています。「敬語を尊敬語・謙譲語Ⅰ・謙譲語Ⅱ・丁寧語・美化語の5種類に分けて解説する」。学校で習う三つに、二つ増えているのです。

増えたといっても、まったく別の体系を持ち出したわけではありません。指針自身が「従来の学校教育等で行われる3種類に分ける考え方と対立するものではない」と断っています。謙譲語とひとくくりにされてきた語を「謙譲語Ⅰ」と「謙譲語Ⅱ」の二つに、丁寧語とまとめられてきた語を「丁寧語」と「美化語」の二つに、それぞれ割り直した。三つの箱のうち二つを、さらに仕切ったわけです。

なぜ、わざわざ仕切り直す必要があったのか。そこを覗いていくと、敬語が三つにきれいに収まらない理由が見えてきます。

学校で習った三つ

念のため、もとの三つを確認しておきます。

尊敬語は、相手や第三者の動作・ものごとを高めて述べる敬語です。「いらっしゃる」「おっしゃる」「召し上がる」。立てたい人の側の行為につけます。謙譲語は反対に、自分の側を低めることで相手を立てる。「伺う」「申し上げる」「お届けする」。そして丁寧語は、聞き手に対して話し方そのものを丁寧にする「です」「ます」。

この三分法は、長く国語教育の標準でした。実際、わかりやすい。尊敬語は相手を上げる、謙譲語は自分を下げる、丁寧語は語尾を整える――と覚えれば、たいていの場面はさばけます。

問題は、この「自分を下げる」謙譲語のなかに、性質のかなり違う語が同居していたことでした。

「伺う」と「参る」のあいだ

「伺う」と「参る」。どちらも、行くことをへりくだって言う謙譲語です。学校文法ではどちらも謙譲語で片づきます。けれど、この二つは立てている相手が違う。文化庁の指針が最も力を入れて説明しているのが、まさにこの違いでした。

指針は謙譲語Ⅰを、こう定義します。「自分側から相手側又は第三者に向かう行為・ものごとなどについて、その向かう先の人物を立てて述べるもの」。例に挙がるのが「伺う」「申し上げる」です。「先生のところに伺う」と言うとき、立てているのは行き先である先生。誰に話しているかは関係ありません。

一方の謙譲語Ⅱ、別名「丁重語」はこう定義されます。「自分側の行為・ものごとなどを、話や文章の相手に対して丁重に述べるもの」。こちらの例が「参る」「申す」「いたす」「おる」。「明日から海外へ参ります」の「参る」が立てているのは、行き先の海外ではありません。いま話を聞いている、目の前の相手です。

同じ「行く」のへりくだりでも、「伺う」は向かう先を、「参る」は聞き手を相手にしている。指針はこの違いを、ひとつの例で鮮やかに見せます。「あ、バスが参りました」。

これは個人的に、指針を読んでいていちばん腑に落ちた箇所でした。バスはへりくだりません。自分の身内でもない。それでも「参りました」が成り立つのは、この語が向かう先ではなく聞き手に向けた丁重さだからです。「バスが伺いました」とは言えない。「伺う」は向かう先を立てる語なので、立てる相手のいないバスには使えないのです。

謙譲語をひとくくりにしている限り、この差は見えません。「行く」のへりくだりが二種類あって、片方は相手によって使えたり使えなかったりする――そこを説明するために、箱を二つに割る必要があった。指針が「従来の考え方だけでは行き届かなかった事柄が、より的確に理解したり説明したりできる」と書くのは、こういうことです。

お酒の「お」は敬語か

もう一つの仕切り直しが、丁寧語から美化語を分けたことです。

「お酒」「お料理」「お茶」。こうした「お」つきの言葉を、指針は美化語と呼びます。定義はそっけなく、「ものごとを、美化して述べるもの」。ここがおもしろいところで、美化語は誰も立てていません。尊敬語のように行為者を上げるのでも、謙譲語のように向かう先を立てるのでも、丁寧語のように聞き手に丁重なのでもない。ただ、ものの言い方をきれいにしている。それだけです。

「お酒は百薬の長」と言うときの「お」には、敬う相手がいない。だから指針はこれを「狭い意味での敬語とは、性質の異なるもの」と位置づけます。三分法の「丁寧語」のなかに、相手への敬意を含まない語が混じっていた。それを別の名で呼ぶことにしたわけです。

この美化語をめぐっては、いままさに動いている変化もあります。「植木に水をあげる」の「あげる」です。本来「あげる」は「やる」をへりくだって言う謙譲語でした。植木に水を「あげる」のは、文法的には妙な話です。けれど指針は、「あげる」が謙譲語から美化語へ向かう意味変化はすでに進行し、定着しつつある、と書いています。へりくだりの色が抜けて、ただ上品な言い方として広がっている。

ちなみに、同じ「お」でも世代と性別でだいぶ偏ります。文化庁の世論調査では、「お弁当」と言う人は、男性がどの世代も1〜3割台、女性はどの世代でも7〜8割台でした。

日本語だけの話ではない

ここまで来て、もとの問いに戻ります。敬語は、なぜ日本語でこんなに込み入っているのか。

ただ、「日本語だから特別に発達した」と言い切る前に、ひとつ確かめておきたいことがあります。敬語の複雑さは、日本語の専売ではありません。

韓国語には、文末の言い方を変える「丁寧さの段階」があります。何段階あるかは資料によって幅があり、英語版ウィキペディアの「Korean speech levels」は固有の語尾を持つ体系を七つ挙げますが、現代語ではもっと少なく整理して教えることも多いようです。いずれにせよ、これとは別に尊敬の語形を組み合わせるので、掛け合わせの数はかなりのものになる。日本語の五分類が素朴に見えてくるほどです。

インドネシアのジャワ語も知られています。話す相手との関係に応じて、ンゴコ(ngoko、くだけた言い方)、マディヤ(madya、中くらいの丁寧さ)、クラマ(krama、改まった言い方)と、語彙そのものを段階的に切り替える仕組みです。ジャワ語と日本語の敬語を比べた言語学者ラハユ(Ely Triasih Rahayu)の研究は、ジャワ語のクラマと日本語の敬語(keigo)を、どちらも相手の位置づけを踏まえて敬意を示す「スピーチレベル」として並べて論じています。

つまり、話す相手によって言葉づかいを大きく変える仕組みは、世界のあちこちにあります。「日本語だけが」という前提は、いったん外したほうがよさそうです。

では、日本語の敬語の何が際立つのか。量よりも、使い分けの「型」かもしれません。日本語の敬語は、相手との関係しだいで同じ人物への扱いがころころ変わる。応用言語学の解説サイト「旅する応用言語学」は、これを「相対敬語」と呼んで整理しています。たとえば自分の上司「山田部長」について、社内の同僚には「山田部長はいらっしゃいません」と敬語を使うのに、社外の人に対しては「山田はおりません」と敬語を外す。相手が変われば、同じ部長への言い方が裏返るわけです。

これに対して韓国語は「絶対敬語」の傾向が強いと、同じ解説は指摘します。自分の祖母のことなら、身内に話すときも他人に話すときも、一貫して敬語で立てる。聞き手が誰かで揺れない。日本語の感覚で「身内を外に下げる」ことをすると、かえって失礼にあたる場面がある、というのです。

「これほど発達した」と言うとき、私たちが感じている複雑さの正体は、語の多さよりも、この相手しだいで切り替わる相対性のほうにあるのかもしれません。

もとは神に向けた言葉だった

その相対敬語も、はじめからそうだったわけではありません。

古い日本語の敬語には、聞き手が誰であろうと、立てる相手が固定された言い方がありました。古文で習う「奏す」と「啓す」がそれです。古文解説サイトの整理を借りれば、「奏す」は帝(天皇・上皇)に申し上げるときの語、「啓す」は皇后・中宮・東宮に申し上げるときの語。誰が誰に話していようと、対象が絶対的に決まっている。だから絶対敬語と呼ばれます。

さかのぼれば、敬語のおおもとには神や天皇への言葉があった、とされます。日本語の敬語の歴史を概観すると、上代には神や天皇に向けた絶対敬語が中心で、それが時代を下るにつれて、聞き手や場に応じて使い分ける相対敬語へと重心を移していった――おおまかには、そういう流れで語られます。

この変化は、当の「敬語の指針」自身が踏まえているものでした。指針はこう書いています。かつては「身分や役割の固定的な階層を基盤とした」社会であり、敬語も「固定的で絶対的な枠組みで用いられた」。これに対して現代社会は「基本的に平等な人格を互いに認め合う社会」であり、敬語も「人と人とが相互に尊重し合う人間関係を反映した相互的・相対的なものとして定着してきている」。

だから指針は、敬語の土台を「相互尊重」と「自己表現」に置きます。上下に従って機械的に使うものではなく、相手や場をどう捉えるかを自分で選んで表す――そういう道具として敬語を捉え直す。この「相互尊重」という考え方自体は新しいものではなく、指針は1952年(昭和27年)の建議「これからの敬語」の「相互尊敬の上に立たなければならない」という一文を、その源として引いています。半世紀以上かけて受け継がれてきた方針なのです。

身分の言葉から、相互尊重の言葉へ。とはいえ、それで敬語が要らなくなったわけではありません。指針が引く2004年(平成16年)の世論調査では、「今後とも敬語は必要である」という意見が回答者の96.1%にのぼっています。

五つで足りるのか

五分類を示した指針も、これで敬語が片づいたとは考えていないようです。同じ文書のなかで、関西の「〜はる」のような方言の敬語、接客現場の「マニュアル敬語」、二重敬語の是非まで、決まりきらない論点をいくつも抱え込んでいます。「させていただく」が増えすぎだといった話も、そのつど蒸し返されてきました。

三つか、五つか。そもそも何種類に数えるのが正しいのか。学校では三つと教わり、国の指針は五つに分け、研究の場ではもっと細かく腑分けすることもあります。説明したい現象が変われば、線の引き方も変わる。「正しい敬語」を一つに覚えたくなりますが、その敬語をどこで仕切るかという土台のほうが、まだ固まりきっていない。私たちは、決着していない分類の途中を、ふだん使っているわけです。

参考・出典

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