漢字はどこから来たのか——甲骨文字から新字体・簡体字まで、3000年の歩み

漢字はどこから来たのか——甲骨文字から新字体・簡体字まで、3000年の歩み 言葉

漢字は、大昔からずっとこの形だったと思っている人が多いはずです。学校で習った、あの整った楷書の姿のまま、何千年も受け継がれてきた——と。

ところが、いま私たちが書いている字は、3000年あまりの変身の、いちばん新しい姿にすぎません。

最初の漢字は、薬でした。正確には、薬として砕かれ、飲まれていました。19世紀の終わりまで、中国では古い骨が「龍骨」と呼ばれ、漢方薬として薬屋に並んでいたのです。すりつぶして、熱冷ましなどに飲む。その骨に文字が刻まれていることに最初に気づいたのが、1899年、清の学者・王懿栄だったと伝えられています。

占いを刻んだ骨

甲骨文字です。亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた、漢字のいちばん古い姿。今からおよそ3300年前、殷(商)王朝の後期にさかのぼります。

世界史の窓の解説をたどると、殷の王たちは、戦や狩り、天気や収穫の見通しを占うたびに、その問いと結果を骨に刻ませていました。骨を火であぶってできたひび割れで神の意思を読み、何を占い、どうなったかを文字で書き添える。だから甲骨文は卜辞、つまり占いの記録とも呼ばれます。文字は、占いの副産物として残ったのです。

骨は、河南省安陽の地中に眠っていました。殷王朝最後の都、殷墟です。そこから農民が掘り出し、薬屋へ流していたものを、王懿栄は買い集めていた。彼の死後、友人の劉鶚がこれを古い文字と見抜き、本にまとめます。やがて学者たちの手で、骨の文字が殷王の名をたどれることが分かり、『史記』に記された殷の王の系譜と一致した。伝説あつかいされていた殷王朝が、骨の文字によって実在を裏づけられたわけです。

これまでに見つかった甲骨からは、のべ3万を超える字が拾われています。別々の字として数えると4000ほど。けれど、いまの研究で確かに読めるのは、そのうち1500から2000字ほどにとどまります。残りは、まだ意味の取れない記号のままです。

調べていて妙にひっかかったのは、漢字のいちばん古い姿が、長いあいだ誰にも文字と気づかれず、ただの薬として飲み下されていたことでした。どれほどの記録が、胃の中に消えたのでしょう。

文字を統一した皇帝

殷の次の周になると、文字は青銅器に移ります。祖先をまつる鼎などの内側に鋳込まれた銘文を、金文と呼びます。骨に刻む字から、金属に鋳る字へ。媒体が変われば、線の太さも丸みも変わっていきました。

転機は、紀元前221年です。秦の始皇帝が中国を統一しました。

それまで、字の形は国ごとにばらばらでした。同じ言葉でも、書けば別の字に見える。これを、丞相の李斯らが小篆という一つの形にそろえたとされます。度量衡や車輪の幅を全国でそろえたのと、同じ発想でした。

絵であることをやめる

小篆は、まだ絵の名残をとどめていました。曲線が多く、もとが何の形だったか、たどれる字も少なくありません。

ところが、秦から漢にかけて、役人たちが日々の実務で書きとばすうちに、字はもっと崩れていきます。なめらかな曲線はまっすぐな線に。丸みは角ばった折れに。書きやすさを最優先して、象形の面影をふりすてた書体——隷書が広まります。

文字史では、この変化を隷変と呼びます。

ここが、ほんとうの分かれ目でした。甲骨文字や篆書は、言われれば「なるほど、これは手の形か」と見当がつくものが多い。けれど隷書から先は、もとの絵を知らなければ、形からは意味を推し量れません。

隷書をさらに整えた楷書は、後漢から魏晋に芽生え、唐の時代に完成しました。くずして速く書く行書や草書も、この流れのなかで出そろいます。今わたしたちが「漢字の手本」として思い浮かべるのは、ほぼこの楷書。3000年の歴史のうち、最後の3分の1ほどでようやく固まった形です。

字を並べた最初の人

紀元100年ごろ、後漢の許慎という学者が『説文解字』を著します。

コトバンクの説明では、許慎は9353字を540の「部」に分けて整理しました。同じ部品を持つ字をまとめる——つまり、部首です。さらに、漢字の成り立ちを6種類に分類しました。物の形をかたどる象形、印で示す指事、意味を組み合わせる会意、意味と音を組み合わせる形声などで、まとめて六書と呼ばれます。

同じ部品を持つ字を一か所に集めるこのやり方は、許慎からほとんど動いていません。今わたしたちが漢字辞典を部首で引くのも、その延長です。

海を渡って、かなになる

漢字が日本に届いた古い証拠の一つが、あの金印です。57年、後漢の光武帝が倭の使者に与えたとされる「漢委奴国王」の金印。江戸時代に志賀島で見つかった、あの5文字です。

本格的に読み書きが根づくのは、もっとあとの5世紀ごろ。王仁らが大陸の書物をもたらしたと伝えられます。やがて日本人は、漢字を意味ではなく音だけ借りて日本語を書きはじめます。万葉仮名です。

ここから、二つの仮名が生まれます。漢字をくずした草書からひらがなが、漢字の一部分を切り取ってカタカナが。「安」をくずせば「あ」に、「阿」の左を取れば「ア」になります。

国ごとに違う、同じ字

20世紀に入ると、漢字はまた大きく姿を変えます。しかも、国ごとにばらばらに。

日本では戦後、まず当用漢字表(1946年)で使う字の範囲を絞りました。続く1949年の当用漢字字体表で、画数を減らした略字を標準の形に定めます。これが新字体です。國は国に、學は学に、廣は広になった。国立国会図書館の整理によれば、この字体表は手書きと印刷の字を一致させ、読み書きをやさしくすることをねらったものでした。今の常用漢字表は、2010年の改定で2136字を収めています。

中国はもっと大胆でした。北京市政府の文化コラムによれば、1956年に漢字簡化方案、1964年に簡化字総表が公布され、簡体字が標準になります。識字率を上げるための簡略化でした。面白いのは、その多くが新しく作った字ではなく、民間ですでに使われていた俗字や草書のくずし方をすくい上げたものだった、という点です。廣は广、學は学、發は发といった具合に、日本よりさらに思いきって削っています。

一方、台湾・香港・マカオは、画数の多い繁体字を今も使い続けています。

結果として、同じ一字が、国境をまたぐと違う形で書かれることになりました。「広い」の字は、もとの廣が、日本では広、大陸では广。相談したわけでもないのに、日本と中国がほぼ同じころ、それぞれの都合で同じ漢字を別々に削ったのです。

たまたま今の姿

以前この雑学帳で、埼玉県八潮市にしか使われない「垳(がけ)」という字を取り上げました。漢字には土地ごとのなまりがある、という話です。

その前日譚をたどると、もっと大きな揺らぎに行き当たります。漢字という仕組みそのものが、3000年かけて形を変えつづけ、海を渡り、いまも国ごとに違う姿で使われている。土地によって字が違うのは、例外でも何でもなく、漢字がずっとやってきたことの延長線上にあったわけです。

変わらないように見える漢字は、むしろ変わりつづけることで生き延びてきました。手元で書く一字も、その長い変身の、たまたま今の姿です。

参考・出典

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