お酒、お料理、お茶、おにぎり、お風呂。私たちは一日のうちに何度も「お」を口にします。あまりに自然なので、これが敬語の一種だと意識することすら、ほとんどありません。けれど、この小さな「お」のはじまりをたどると、天皇や神仏にだけ向ける、最上級の敬意の言葉に行き着きます。
軽い飾りのように見える「お」は、いつ、どうやってここまで軽くなったのか。重い敬語が、千年かけてすり減っていく話です。
もとは「大御」だった
「お」の祖先は「御」という字です。辞書で読み方の歴史をたどると、もっとも古い形は「み」。そこに「大(おほ)」が付いた「大御(おほみ)」が、最上級の敬意を表す形でした。「大」も「御」も、それぞれ単独で敬意を表せる語です。それを二つ重ねた、いわば敬語の最高位。神や天皇にかかわるものにだけ冠する言葉でした。
この「おほみ」が、口で使われるうちにすり減っていきます。「おほみ」が「おほん」になり、「おほん」が「おん」に縮み、やがて「お」になった。『源氏物語』の冒頭、「いづれの御時にか」の「御時」を「おほんとき」と読むのは、その途中の段階の名残です。
おもしろいのは、平安のころまで「お」という短い形が、ま行音の前にしか現れない珍しい形だった、という点です。それ以外の音の前では「おん」(古くは「おむ」)が普通で、後ろの音を選ばずに「お」が付くようになるのは鎌倉時代からでした。
ついでに言えば、漢語には「ご(御飯、御本)」が付きやすく、和語には「お(お米、お酒)」が付きやすい、というゆるい棲み分けも、この字の読み分けから生まれています。
御所の女房から町へ
「お」が一気に身近になった転換点は、室町時代の宮中にありました。
コトバンクの解説によれば、室町初期ごろから御所や仙洞御所に仕える女房たちが使いはじめた一種の隠語があり、これを「女房言葉」または「女房詞」と呼びます。御所言葉とも、文字詞(もじことば)とも言いました。食べ物や体にかかわる、口にしにくい言葉を、上品に言い換えるための符牒です。
言い換えには、いくつかの型があります。末尾を「もじ」で濁すと、髪が「かもじ」、杓子が「しゃもじ」、空腹が「ひもじ(ひもじい)」になる。頭に「お」を足すほうからは、かつお節の「おかか」、腹の「おなか」、かまぼこの「おいた」。小学館の辞書サイトのコラムで井上明美さんが挙げている例を借りれば、田楽から来た「おでん」、冷たい水の「おひや」、副菜の「おかず」も同じ仲間です。
宮中の女房たちの符牒だったこれらの言葉は、足利・徳川の将軍家の大奥を経由して、武家や町家の女性たちへ広がりました。上品な言葉づかいへの憧れが、言い換えを少しずつ下へ降ろしていったのでしょう。「おかず」や「おでん」を女房言葉だと意識して使っている人は、今やまずいません。
「お」がつくと別物になる
ここまでの「お」は、もとの言葉に敬意や上品さを添えるものでした。ところが「お」には、付けた言葉を別の意味にすり替えてしまう、もう一つの顔があります。
同志社女子大学の吉海直人さんのコラムが、この働きを並べて見せています。たとえば「にぎり」と「おにぎり」。前者は寿司屋のにぎり寿司を指すのに、「お」が付いた「おにぎり」は握り飯になり、値段も中身もまるで違うものになります。「八つ時」という時刻を表した「やつ」に「お」が付くと、その時刻の間食「おやつ」に変わる。「箱」が「おはこ」になればその人の得意芸を指し、「袋」が「おふくろ」になれば母親を指す。
おいしい、という言葉もそうです。井上さんのコラムによれば、もとは味のよさを表す女房詞「いしい」があり、それに「お」が付いて「おいしい」になりました。「お」を外した「いしい」は、もう通じません。敬意を添えるはずの接頭語が、いつのまにか語の一部に溶けこんでいるのです。
尊敬から美化へ
では、冒頭の問いに戻ります。「お」はいつから丁寧語になったのか。はっきりした境目の年があるわけではありません。神や天皇に向けた重い敬意がじわじわとすり減り、室町の女房言葉として身近な食べ物や暮らしの言葉に広がって、江戸を通じて武家から町家へと降りていく。その長い地ならしのすえに、相手を高める力をほとんど手放した「お」が残りました。
整理の手がかりになるのが、文化庁が2007年にまとめた「敬語の指針」です。それまで敬語は尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類で説明されてきましたが、この指針は謙譲語を二つに分け、さらに「美化語」という枠を新しく立てて、全部で5種類に整理しました。
この美化語こそ、お酒やお料理の「お」の居場所です。文化庁の解説は、美化語を「ものごとを、美化して述べるもの」と定義します。相手を高めるのでも、自分をへりくだるのでもなく、ただ言葉を上品に見せるだけ。「お名前」「お導き」の「お」が相手を立てる尊敬語なのに対して、「お酒」の「お」は誰の敬意でもない、というわけです。同じ一文字が、相手次第・文脈次第で尊敬語にも美化語にもなります。
もっとも、尊敬語としての「お」が消えたわけではありません。「お名前」「お導き」は今も生きていて、美化語の「お」と同じ一文字のまま同居しています。それでも、神や天皇に向けた「大御」を出発点に置くと、敬意の重さが軽くなる方向へ動いてきたことは確かでしょう。軽くなったぶん、誰でも、何にでも気軽に使える。「お得」や「おもてなし」のような言葉が今も新しく生まれているのは、その身軽さゆえなのかもしれません。
参考・出典
- 文化庁「敬語の指針」関連解説(敬語の基本・5種類の分類) https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/keigo/chapter2/detail.html
- 吉海直人「『お』を付けると意味が変わる言葉」(同志社女子大学 表現文化学科コラム) https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/18099
- 井上明美「身近な女房詞」(小学館の辞書公式サイト「ことばのまど」第42回) https://kotobanomado.jp/column/6735/
- コトバンク「女房言葉」(精選版 日本国語大辞典ほか) https://kotobank.jp/word/女房言葉-858906
- goodcross「接頭語『御』の読み方」(大御→おほん→おん→お の音韻史) https://www.goodcross.com/words/3699-2016
- ウィキペディア「御」 https://ja.wikipedia.org/wiki/御


