漢字にも方言がある——「垳」という文字が教える、土地と文字の関係

漢字にも方言がある——「垳」という文字が教える、土地と文字の関係 言葉

漢字は全国どこでも同じ。そう信じたまま、たいていの人は一生を終えます。話し言葉に方言があることは知っていても、文字にまで土地のなまりがあるとは、なかなか思い至りません。

ところが、日本のある一字は、その思い込みをひっそり裏切ります。

埼玉県八潮市。土へんに「行」と書いて「がけ」と読む「垳」という地名が、ここにあります。

その一字は、なぜ八潮にしかないのか

「垳」は、八潮市南部の大字の名前です。そして、すぐそばを流れる垳川。この二つを書くとき以外、日本中どこを探しても出番がありません。JIS第二水準には入っているので、パソコンでもスマホでも一応は打てます。けれど使い道はこの土地に限られている。これほど行き先のはっきりした漢字も、そうはないでしょう。

地名としての歴史は浅くありません。江戸時代には武蔵国埼玉郡八条領の垳村として記録にあらわれ、寛文二年(一六六二年)からは旗本・森川氏の知行地になりました。明治の町村制で潮止村の一部となり、昭和四十七年の市制施行で八潮市の大字へ。名前はずっと、この土地に貼りついてきたのです。

土地そのものが、低い。八潮市のなかでも垳はとりわけ標高が低く、最低点は海抜一メートルそこそこしかありません。中川と垳川にはさまれた一帯は、水とのつきあいに明け暮れてきた場所でもあります。その垳川にしても、もとは綾瀬川の流れでした。寛永のころに流路が付け替えられ、取り残された旧流路が、そのまま川の名として残ったものです。

画像:Ebiebi2「垳川とふれあい桜橋」 / Wikimedia Commons / Public domain

「がけ」と読ませる理由は、ひとつではない

では、なぜ土へんに「行」で「がけ」なのか。これがおもしろいことに、説が割れています。

八潮市自身は、一九八一年の民俗調査報告書でこう説明しました。水が「カケる」、つまり捌ける。土が流されて「行く」さまを、まるごと一字に写したのだ、と。地形をそのまま字にした、という見立てです。

一方、方言漢字の研究で知られる笹原宏之は、別の読みを示します。「垳」はそのまま崖の意味で、川岸の斜面をさしていた。もともと崖を表す中世の漢字「圻」があり、書き写されるうちに形が崩れて、この土地でだけ「垳」に化けて定着した——というのです。

どちらが正しいのかは、いまも決まっていません。けれど、たった一字の由来に説が二つもあること自体が、地名というものの奥行きを物語っています。水が捌ける土地。崖をなす岸。どちらにしても、そこには土地の成り立ちが畳み込まれているのです。

消えかけた地名を、よその人が惜しんだ

この「垳」、実は一度、消えかけました。

二〇一二年、駅周辺の区画整理にあわせて、地名を別の呼び名へ変えようという話が持ち上がったのです。読みにくく、扱いづらい一字は、こういうとき真っ先に「整理」の候補になります。

声を上げたのは、地元の人——ではありませんでした。獨協大学の職員が「垳」の希少さに気づき、「垳を守る会」を立ち上げます。住民からも地名の存続を願う声が重なって、運動は広がっていきました。会はやがて「八潮の地名から学ぶ会」へと育ち、八潮の一字にとどまらず、全国の方言漢字を扱うようになります。

いまでは八潮市は、ここを「方言漢字の聖地」として売り出しています。「垳サミット」が開かれ、地名を冠した商品が次々に生まれ、笹原宏之が講話に招かれる。消えかけた一字が、まちおこしの旗印になりました。

ひっかかるのは、その値打ちに最初に気づいたのが、よその土地の人だったことです。毎日その字を見て暮らす人ほど、珍しさには鈍くなる。空気をいちいち数えないのと、同じことなのでしょう。

文字にも「なまり」がある

「垳」はとびきり極端な例ですが、仲間は全国に散らばっています。

こうした土地がらみの文字を、方言文字とか地域文字、漢字であれば方言漢字と呼びます。国立国語研究所の解説によれば、漢字には北海道から沖縄まで地域による違いが確かにあり、国字や国訓の一種として整理されます。成り立ちは、おおむね三筋。古い字が一部の土地だけに生き残ったもの。その土地で新しくこしらえられた国字。そして、字は同じでも読みだけが土地で割れるもの——たとえば「谷」を「や」と読むか「たに」と読むか、東西で対立する、といった具合です。

地図の上に置きなおすと、土地の文字はあちこちで顔を出します。東北には湿地の「萢(やち)」や、雪ぞりからきた「轌(そり)」。関東の低湿地には「圷(あくつ)」、京都には木の名の「椥(なぎ)」、九州には「椨(たぶ)」。愛知の「杁(いり)」は田へ水を引く木の水門をさし、富山・八尾では、ざるを表すために「笽(そうけ)」がこしらえられました。

どれも、手持ちの漢字では足りなかった土地の事情から生まれています。崖、湿地、峠、用水——身近で切実なものほど、専用の一字がほしくなる。文字は土地の必要にあわせて、使い込まれてきたのです。

文字コードは、何をふるい落とすのか

ここに、現代ならではのふるいが加わります。文字コードです。

パソコンやスマホで漢字を映すには、その字がコードに登録されていなければなりません。長く住所に使われてきたJISの基本的な範囲は、六千字ほど。そこに入れなかった字は、よく似た別の字に置き換えられるか、仮名に開かれてしまいます。

「垳」が今も命脈を保っている理由のひとつは、この字がJISの内側へ滑り込めていたことでした。コードに入れたかどうか。それが、デジタル時代に文字が生き延びられるかどうかの分かれ目になっています。区画整理が土地の名を消すように、文字コードもまた、静かに文字を選り分けているのです。

土地の文字は、日本だけのものか

文字の地域差は、日本にかぎった話ではありません。

漢字の本家である中国は、国土が広く、方言の隔たりも大きい。だから各地で、独自の字が作られてきました。とりわけ広東語は、話し言葉を書き取るための字が豊かに育った言語です。「来る」を意味する口語に口偏を添えて「嚟」と書く、といった調子で。公式の文章は標準中国語ですから、こうした字に正書法はありません。市井で生まれ、芝居の台本などを通じて広まったものです。

なかには出世した字もあります。「焗(蒸し焼き)」や「煲(じっくり煮込む)」といった広東の料理ことばは、食文化が各地へ広がるにつれて中国全土で使われ、二〇一三年の『通用規範漢字表』に収められました。地方の方言字が、お墨つきの標準字へ昇格したわけです。土地といっしょに文字が動いていくところは、日本とそっくりです。

一字は、土地の何を語るのか

笹原宏之は、方言漢字を「土地の手形」あるいは「生きた化石」と呼びました。『方言漢字事典』には、北海道から沖縄まで約百二十字が並びます。その一字ずつに、土地の風土と歴史と言い伝えが畳み込まれている。

「垳」を裏返せば、低地の水害の記憶が出てきます。湿地の字には土地の成り立ちが、峠の字には道の険しさが残っている。文字とは、その土地が何を見て、何を恐れ、何を頼りに暮らしてきたかの控えなのです。

旧国名が法律で消されてもなお地名のなかに生きているように、土地の文字もまた、制度の入れ替わりをすり抜けて貼りついています。旅先で読めない漢字に出くわしたら、少し立ち止まってみてください。それはたぶん、その土地が小さな声で何かを語りかけている合図です。

参考・出典

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