明石の子午線はなぜ「日本標準時」の基準になったのか——東経135度の政治と地理

歴史

日本の時刻は、兵庫県明石市を通る一本の線によって決まっている。正確には、その線の上を太陽が南中する瞬間を基準に、日本全国が動いている。「子午線のまち」と呼ばれる明石は、いまも時の象徴として語り継がれる。

だが、この話には少し補足が必要だ。明石があったから東経135度が日本標準時になったのではない。東経135度という数字が先に決まり、その線がたまたま明石を通っていた。話の順序が逆なのである。

「15の倍数」という純粋な計算

地球は24時間で一回転する。360度を24で割ると15度。経度が15度ずれるごとに、ちょうど1時間の時差が生まれる計算になる。

この単純な算術が、標準時の基礎をなしている。1884年(明治17年)、アメリカのワシントンで開かれた国際子午線会議には26か国の代表が集まり、イギリス・グリニッジ天文台を通る子午線を経度の起点(経度0度)と定めた。グリニッジを0度とした場合、世界の標準時はすべて15の倍数を基準に設定されることになる。

日本の国土には、東経120度、135度、150度という3本の15の倍数線が通っている。このうち国土の中心に近い135度が選ばれた。グリニッジとの時差はちょうど9時間(135÷15=9)。キリのよい数字が選ばれた背景には、こうした国際的な取り決めへの整合性があった。

会議でフランスはパリ天文台を経度の起点とするよう主張した。グリニッジ天文台が1676年建設、パリ天文台が1677年建設と、歴史の重みではほぼ互角だった。しかし投票の結果はグリニッジの勝利。この一票がなければ、東経135度は「標準時の線」ではなく、ただの無名の経線のままだったかもしれない。

勅令から実施まで、2年の準備期間

国際会議の2年後、1886年(明治19年)7月13日、明治政府は勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」を公布した。その第三条にこうある。

「明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時を以テ本邦一般の標準時ト定ム」

制定から実施まで、約2年の準備期間が置かれた。鉄道網の整備が進み、地方ごとに異なる「地方時」の運用が限界を迎えつつあった時代だった。東京発の列車は東京の時刻で走り、京阪神間の列車は大阪の時刻で動いていた。北海道の東端と九州の西端では、実際に約1時間の時差があった。

1888年(明治21年)1月1日午前0時0分、内務省地理局観象台から全国の電信局に標準時が通報され、日本全土がひとつの時刻を共有しはじめた。

標識を建てたのは小学校の先生たちだった

勅令には「東経135度」とあるだけで、特定の都市は指定されていない。明石が「子午線のまち」になったのは、その後の人々の行動によるものだ。

最初に動いたのは、明石郡小学校長会の教員たちだった。算術の国定教科書に子午線の記述が加わったことで、教員たちは子午線について新たに学ぶ必要が生じた。その過程で、東経135度が明石を通っていることに気づいた。

1910年(明治43年)、教育勅語発令20周年記念事業として計画された子午線標識が、相生町の国道筋(現在の明石市天文町2丁目)に建てられた。お金は先生たちの自費だった。日本初の子午線標識である。

勅令の公布から、標識の建立まで24年。その間、この線は地図の上にしか存在しない概念的な境界線に過ぎなかった。

12の市を通る、しかし「明石」だけが知られる理由

東経135度線は明石市だけを通っているわけではない。北から京丹後市、福知山市(以上京都府)、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市西区、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市——計12市がこの線上にある。

中でも、西脇市は東経135度と北緯35度が交差する地点に位置し、地理的にいえば明石より「象徴的」な場所といえるかもしれない。明石市内を東経135度が通過する距離は、12市の中で最短の部類に入る。

それでも「子午線のまち」が明石になった理由は、端的にいえば先手を打ったことによる。1910年の標識建立、1960年の天文科学館開設——この2つの積み重ねが、明石を代名詞にした。「子午線のまち」という地位は、先人たちが自ら育てあげたものだった、と明石市立天文科学館は記録している。

どこで決まり、誰が名乗ったか

まとめると、この話は3つの決定が積み重なって成立している。

  • グリニッジが経度0度に選ばれたこと(1884年・国際会議の投票)
  • 日本が東経135度を標準時に選んだこと(1886年・明治政府の勅令)
  • 明石が子午線標識を最初に立てたこと(1910年・地元教員の自費)

最初の2つは政治と算術の産物だ。3つ目だけが、誰かの自発的な意志による。東経135度が「明石の線」として語られるのは、この3つ目のおかげである。地理は偶然の産物だが、名声は偶然に委ねなかった——明石の先人たちはそう考えたのかもしれない。

参考・出典

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