神戸といえば港町、その玄関口が旧居留地——そう聞くと、開国のときに外国へ開かれたのは当然「神戸」だった、という気がしてきます。おしゃれな街の代名詞のようなあの一帯が、最初から国際貿易の窓口だったのだろう、と。
ところが、幕府が外国と結んだ条約に書かれていた開港地は、神戸ではありません。「兵庫」でした。しかも実際に外国人居留地が築かれたのは、その兵庫の中心から東へ3.5キロほど離れた、田畑と砂地が広がるだけの神戸村です。条約の文言と、できあがった街の場所が、これほどずれている。なぜ「兵庫」と書きながら、人は神戸に街を作ったのでしょうか。
条約に書かれた「兵庫」
ことの始まりは1858年です。幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、続けてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じ内容の条約を交わしました。まとめて安政五カ国条約と呼ばれます。このとき約束した開港地のひとつが、兵庫でした。
兵庫が選ばれたのには理由があります。兵庫津は、平清盛が大輪田泊として整え、瀬戸内海の海運で栄えてきた古くからの良港。外国に開く港としても、まずここが候補にあがるのは自然なことです。条約は開港の期日まで決めていました。1863年1月1日。神戸ではなく兵庫を、その日に開く。
京都に近すぎた港
ところが、約束の日は来ませんでした。条約の発効には天皇の許し、勅許が要るとされていたのに、それがなかなか下りない。
引っかかったのは、場所でした。兵庫は、御所のある京都に近すぎたのです。攘夷の機運が高まるなか、朝廷は、京都の目と鼻の先に外国人を住まわせることに強く難色を示します。幕府はやむなく開港の延期を願い出て、文久遣欧使節をヨーロッパへ送り、各国と交渉して期日を先延ばしにしてもらいました。結局、兵庫が開かれたのは予定から5年遅れの1868年1月1日。旧暦でいえば慶応3年12月7日です。延期のあいだに幕末の政局は大きく動き、開港の年は、そのまま明治維新の年と重なりました。
兵庫津ではなく、神戸村へ
5年の猶予は、開く「時期」だけでなく、開く「場所」も動かしました。
港に向いているのはどこか。それを実地に確かめたのが、イギリス公使ハリー・パークスらでした。海の深さを測ってみると、古くからの兵庫津のあたりは遠浅で、大型の外国船を泊めるには物足りない。東へ離れた神戸村の前の入江のほうが、水深があって投錨地に向いている。国土交通省がまとめた神戸港の歴史でも、このパークスの測量が、開港地を兵庫津から神戸へ動かす決め手になったと説明されています。神戸村の入江を「十分な水深があり、天然の投錨地になっている」と評したパークスの随員の言葉も伝わっていますが、これは資料から資料へと孫引きで引き継がれてきたもので、原典の随員名まではたどりきれませんでした。
理由はもう一つあります。古い港町の兵庫津には、すでに日本人の暮らしがびっしり詰まっていました。そこへ外国人を入れれば、摩擦は避けられない。その点、神戸村は砂地に田畑が広がるだけの、人口の少ない村です。日本人の生活圏とほどよく離れ、紛争の火種になりにくい。しかも何もない土地は、外国人をひとまとめに住まわせ、街を一から区画するのにも好都合でした。
幕府は柴田剛中を兵庫奉行に任じ、神戸村に居留地と港を造らせます。それでも開港の日に間に合ったのは、運上所の建物と、3か所の埠頭、3棟の倉庫だけ。街と呼べるものは、まだほとんど何もありませんでした。
上海帰りの技師が引いた碁盤の目
更地から街を立ち上げる。その設計を担ったのが、イギリス人の土木技師J・W・ハートでした。
神戸っ子のコラムによれば、ハートはイギリスのリバプールに生まれ、上海で船渠(ドック)の築造に携わった経歴の持ち主です。租界の都市づくりを見てきた技師が、1868年に神戸へ渡り、居留地行事局の技師として街の骨格を引きました。1872年に作られた造成計画図では、居留地は126の区画に整然と分けられています。広い車道と歩道、雨水を流す下水、街路樹、ガス灯。中央には南北に走る幅の広い大通りが通り、西の端にはパブリックガーデン、海岸沿いにはプロムナード(遊歩道)、さらに生田川の堤防跡を使ったレクリエーション用の広場まで描き込まれていました。住む前から、公園と散歩道が用意されている街です。
私がいちばん面白いと感じたのは、この街の作られ方の順序でした。同じころすでに開いていた横浜の居留地は、必要に追われてなしくずしに膨らんでいきます。それに対して神戸は、まず1枚の計画図があり、碁盤の目に区切ってから街を載せた。先に道と下水とガス灯を引き、それから建物が建っていく。逆なのです。当時の都市としては、これはかなり異例でした。整いぶりは外国人自身を驚かせたようで、英字新聞『ザ・ファー・イースト』は、神戸を東洋でもっともよく設計された美しい居留地だと評しています。「東洋一美しい居留地」という褒め言葉は、今も神戸旧居留地の歴史を語るたびに引かれます。区画ひとつの大きさ、道幅、街路樹の位置まで、最初から決められていた。今あの界隈を歩いて感じる端正さは、明治のはじめに引かれた1枚の図面の、ほぼそのままの姿なのです。
街を動かしたのは外国人だけではない
居留地の話は、ふつうここで「美しい西洋の街ができました」と落ち着きます。けれど、調べていて寄り道したくなったのは、その先でした。
神戸大学の小代薫氏が日本建築学会の論文で論じているのは、居留地の周りに広がった「内外人雑居地」での出来事です。外国人たちが土地を取得し、投機的に売り買いし、自分たちで自治の仕組みを動かしていく。その様子を間近で見ていた日本側の役人、神田孝平が、そこから制度の着想を得たのではないか、というのです。神田は、のちに地租改正と地方民会——地方議会のはしり——を日本で始めた人物として知られています。論文は、その発想の源が神戸の開港場にあった可能性を指摘しています。外国人のために隔離して作った街が、めぐりめぐって日本人の側の都市づくりや自治の制度に影を落としていた。きれいに区切られた碁盤の目の外側で、もう一つの近代化が静かに進んでいたわけです。
「兵庫開港」の名が残って
街は神戸村にできたのに、開港そのものは長らく「兵庫開港」と呼ばれ続けました。条約に「兵庫」と書いてしまった以上、公式の名前はそう簡単には動かせません。港が正式に「神戸港」と名づけられたのは、勅令の出た1892年です。
居留地が日本側に返されたのは1899年7月17日。日英通商航海条約をはじめとする条約改正が発効し、外国人居留地という仕組みそのものが役目を終えた日でした。けれど碁盤の目の街区も、銀行や商社が集まる一等地としての性格も、そっくり残ります。神戸という都市の中心は、もとをたどれば、外国人を住まわせるために砂地の村へ引いた、あの区画から育ったものでした。条約には「兵庫」とあったのに、街は神戸にできた。そのずれが、今の旧居留地の道筋を引いたのです。
参考・出典
- 国土交通省 近畿地方整備局 神戸港湾事務所「幕末から明治へ〜兵庫津から神戸港へ」 https://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-3.html
- 小代薫「明治初期の神戸『内外人雑居地』における外国人による土地取得の推移と日本人による都市整備過程」日本建築学会計画系論文集 79巻700号(2014年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/79/700/79_1469/_article/-char/ja/
- 神戸旧居留地オフィシャルサイト「旧居留地の歴史」 https://www.kobe-kyoryuchi.com/history/
- 神戸っ子「時を経ても色あせない美しい街並み 『居留地』を設計したJ・W・ハート」 https://kobecco.hpg.co.jp/11926/
- 神戸シティ・プロパティ・リサーチ「神戸旧居留地の今昔」 https://www.kcpr.or.jp/webcolumn/2262/
- Wikipedia(補助)「神戸外国人居留地」 https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸外国人居留地


