大阪の商家、加島屋久右衛門家が明治政府に届け出た大名貸の証文の中に、返済期限が250年賦のものがあったそうです。最も古い証文は寛保3年(1743年)10月。130年前の借金と、250年かけて返す約束。東京都立大学の小林延人氏が整理した数字です。少なくともこの帳簿を見るかぎり、大名貸は期限どおりに返ってくる前提の貸付ではなかったようです。
明治4年7月14日、太陽暦でいえば1871年8月29日。この日、260年あまり続いた幕藩体制が終わりました。全国の藩がすべて県になり、大名は領地と領民を失っています。奇妙なのは、そのあとです。300近い家が一斉に立場を奪われたというのに、まとまった武力抵抗は起きていません。改訂新版の世界大百科事典は「藩主層はまったくといってよいほど抵抗しなかった」と記しています。
7月14日
段取りそのものは、クーデターに近いものでした。nippon.comの記事によれば、野村靖と鳥尾小弥太が7月の初めに構想を持ち込み、実行までわずか数日。7月9日、木戸孝允の私邸に西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、井上馨、山県有朋が集まって計画を固めています。太政大臣の三条実美と右大臣の岩倉具視に知らされたのは、決行の2日前、12日でした。政府の頂点に立つ二人が、直前まで蚊帳の外に置かれていたわけです。
14日、在京中の知藩事が召集され、詔書が下されます。知藩事はその場で全員が罷免され、東京への移住を命じられました。代わりに府県を治めるのは、政府が任命する府知事・県令。藩はすべて県となり、全国は3府302県になります。
版籍奉還の2年間
1869年の版籍奉還で、大名は土地と人民を朝廷に返上しています。ただし国立公文書館の展示解説にあるように、旧藩主はそのまま知藩事に任命され、引き続き領地を治めることが認められました。看板の掛け替えに近い改革です。
このとき動いたのは、収入のほうでした。知藩事の家禄は現石高の10分の1と定められ、藩士の家禄は各藩が適宜に改革することとされます。肩書は動かないまま、金の出どころだけが先に変わりました。
年貢と引き換えに
大きかったのは、家計の話です。
戊辰戦争の軍費は、各藩が自前で調達しています。終わってみれば債務は膨らみ、藩の財政は軒並み行き詰まりました。世界大百科事典によれば、1869年12月以降、自分から廃藩を願い出る藩が相次いでいます。山川の日本史小辞典はもう少し具体的で、同年12月の吉井・狭山両藩を皮切りに、1871年6月までに14藩が自発的な廃藩を申し出たとしています。300のうち14です。例外的な少数ではありますが、潰される前に自分から手を挙げる動きが、すでに出ていました。
そのうえで政府は、条件を出しました。年貢は政府の収入とします。代わりに旧藩士への家禄の支給と、藩の負債は政府が肩代わりします。知藩事は職を失うものの、家禄と華族という身分は保証され、住まいは東京へ移ります。百科事典マイペディアの記述を借りれば、藩の債務を肩代りする代わりに各藩の年貢を政府収入とした、という交換です。
差し出したのは年貢の徴収権と統治の職で、手元に残ったのは収入と身分でした。
藩債処分
廃藩置県の翌月、大蔵省は債務を調査して公私を区別する方針を示し、実務は府県に引き継がれました。大阪府が藩債の取り調べに入ったのは同年12月。小林氏が経済史研究会で報告した「藩債処分から考える債権の近代化」をたどると、線の引き方そのものが政策だったことが見えてきます。
区分の大綱が決まったのは1872年3月。天保14年(1843年)以前の借入金は「古借」として棄捐、つまり切り捨て。弘化元年から慶応3年(1844〜1867年)は「中借」として無利息50年賦の国債に振り替えます。明治元年以降は「新借」として、3年据え置き・年利4%・25年賦の国債にします。翌1873年3月25日の新旧公債証書発行条例(太政官布告第115号)で、これが正式な制度になりました。区分の名称と扱いは辞典類でも古債・旧債・新債として整理されていて、古債は全部が切り捨て、旧債・新債のうち公債とみなしうるものを政府が引き受けた、とされています。
天保14年という区切りには根拠がありました。この年、旧幕府自身が藩債棄捐の法令を出していたのです。そして古債とその滞納利息は、藩債総額の2割以上を占めていたといいます。冒頭の加島屋の帳簿で見ると、明治5年時点で届け出た債権のうち古債にあたるものは37.28%、金建てで396,185両。この分が、線引き一本で消えました。
もう一つ、見落としやすい変化があります。新旧公債証書は所持人の所有物とされ、相続も譲渡も質入れも抵当設定も自由にできる証券になりました。それまで「あの殿様への貸付」という個別の関係だった債権が、誰にでも売り渡せる紙になります。小林氏はこれを債権の近代化と呼んでいます。
小林氏の報告では、国に頼らず藩債を全額自前で返した藩も8藩ほど挙がっています。旧名古屋藩は、廃藩前に伐り出した木曽材を徳川家の私有財産と政府に認めさせ、それを元手に私債を完済しました。1873年12月15日に消却完了届を提出しています。
使われなかった保険
1871年2月、鹿児島・山口・高知の3藩連合が政府首脳の人事を動かし、西郷隆盛と木戸孝允が参議となって政体改革にあたります。同じ時期、3藩から兵を出して約1万を兵部省の管轄下に置く親兵が設けられました。集結が終わったのは6月。nippon.comは6月までに8,000名が東京に集まったとしており、数え方によって幅がありますが、いずれにせよ政府が直接動かせる軍が、このとき初めて手元にできました。
背景は穏やかではありません。1870年の後半には日田大一揆や北信大一揆といった反政府運動が激化しています。備えは必要でした。ただ結果として、御親兵が鎮圧に出る場面はありませんでした。
抵抗しなかったのは、あくまで藩主層です。家臣の禄をどうするかという問題は、このあとの秩禄処分へ持ち越されました。
302県から43県へ
3府302県という区画は、旧藩の境界をそのまま県に置き換えただけの、飛び地だらけの姿でした。当然もちません。
同じ年の11月には大規模な統合が行われ、3府72県1使になります。国立公文書館の展示も、300以上あった藩や県が統廃合を経て最終的に72県に整理されたと述べています。そこからも整理は続き、改訂新版の世界大百科事典によれば、1879年に沖縄県が置かれたあとは1使3府36県、1888年に1道3府43県になりました。
7月に302、11月に72、そして1888年に43。藩が消えたのは一日でしたが、県の輪郭が固まるまでには17年かかっています。
参考・出典
- 国立公文書館「明治4年(1871)7月 廃藩置県が断行される:日本のあゆみ」 https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m04_1871_04.html
- 国立公文書館「近代国家 日本の登場 3.版籍奉還と廃藩置県」 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/return/index.html
- 小林延人「藩債処分から考える債権の近代化」第699回 経済史研究会(東京大学), 2021 https://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/workshops/history/history_paper2021/history0614.pdf
- 世界大百科事典・日本大百科全書・日本史小辞典・マイペディアほか(コトバンク)「廃藩置県」 https://kotobank.jp/word/廃藩置県-113940
- 日本大百科全書ほか(コトバンク)「版籍奉還」 https://kotobank.jp/word/版籍奉還-118194
- 世界大百科事典ほか(コトバンク)「新債」 https://kotobank.jp/word/新債-1343488
- nippon.com「廃藩置県150周年:明治維新最大の変革を振り返る」 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01159/


