翻訳はなぜ難しいのか——等価という幻想と、訳し直され続ける言葉

翻訳はなぜ難しいのか——等価という幻想と、訳し直され続ける言葉 言葉

「I hired a worker」という、どうということのない英文があります。これをロシア語にしようとすると、訳者はその場で二つの決断を迫られます。その雇用は完了しているのか、していないのか。雇った相手は男か、女か。ロシア語は動詞の相と名詞の性を選ばずには文が作れないので、原文が黙っている情報を、訳者が勝手に決めることになります。逆に英語話者へ「その人は男性でしたか」と尋ねれば、質問のほうが不躾に聞こえるでしょう。

海外旅行で言葉に困ることは、ずいぶん減りました。メニューにスマートフォンをかざせば日本語が浮かびますし、下訳を機械に任せてから手を入れる、という進め方も珍しくありません。それなのに翻訳を仕事にしている人と話すと、「訳せない」という言葉が何度も出てきます。辞書に訳語が載っていないという意味ではありません。載っているのに、置き換えると何かが落ちてしまうのだそうです。

「同じ意味」という前提

翻訳をめぐる議論は、たいてい「等価」という言葉から始まります。原文と訳文が同じ価値を持つ、という考え方です。ところがこの前提は、思いのほか早く崩れます。

冒頭の例を挙げたのは、言語学者のロマーン・ヤコブソンでした。1959年の論文で彼は翻訳を三つに分けています。同じ言語の中で言い換える言語内翻訳、別の言語へ移す言語間翻訳、言葉以外の記号体系へ移す記号間翻訳。そのうえで、言語間翻訳ではコード単位どうしの完全な等価はふつう存在しない、と述べました。彼が引くもう一つの例はチーズです。英語の cheese とロシア語の сыр は辞書の上で対応しますが、カッテージチーズは cheese には入り、сыр には入りません。

哲学の側からは、もっと根の深い疑いが出ています。スタンフォード哲学百科事典のクワインの項目をたどると、「翻訳の不確定性」という主張に行き当たります。ある言語を訳す仕方には、どれも同じくらい正しいのに単なる文体の違いには収まらない複数の道がありうる、というものです。目の前を兎が横切ったときの一言を、「兎がいる」と訳すか、「兎性がそこに現れている」と訳すか、「切り離されていない兎の部分がある」と訳すか。どれを選んでも会話はなめらかに進みます。これを言語の外側から確かめる手立てはない、というのがクワインの見立てです。

実務の側は、それでも等価を捨てていません。聖書翻訳から理論を組み立てたユージン・ナイダは、原文の形をなぞる形式的等価と、読み手に同じ効果を起こす動的等価を区別しました。この枠組みは今も現場で使われています。一方、翻訳研究者の長沼美香子はもっと辛口で、等価という概念は異なる言語のあいだに対称性があるかのような幻想を生む、と書いています。それでも翻訳学は等価の記憶を断ち切れない。だから等価を消すのではなく、幻想として可視化するメタ的な思考が要る、と。等価は「ないと言えばないし、あると言えばある」。この食い違いは埋まっていません。

I hired a worker

ヤコブソンの論文には、翻訳の難しさを一行で言い当てた一節があります。言語が本質的に異なるのは、何を言えるかではなく、何を言わねばならないかにおいてである。

同じことは日本語と英語のあいだでも起きます。英語の I を日本語にするとき、私・僕・俺・わたくしのどれを選ぶかで、話者の年齢も立場も相手との距離も一気に確定してしまいます。原文にはその情報がありません。敬語も同じで、英語の中立な一文を日本語にした瞬間、上下関係についての判断が文体に貼りつきます。逆向きも厄介です。日本語がふつうに省く主語を、英語は省けません。誰の話なのかを、訳者が補って書き込むことになります。

訳文が原文より断定的に読めることがあるのは、訳者の趣味ではなく、言語の側が黙秘を許してくれないからでした。

カサンの辞典

「不可訳語」という言い方があります。saudade、Schadenfreude、いろいろ挙げられる、あの手の語です。

哲学者バーバラ・カサンらが編んだ『Dictionary of Untranslatables』は、この語をもっと厄介な意味で使っています。書評誌 Theory, Culture & Society でリュシー・メルシエが説明しているところでは、カサンが untranslatable と呼ぶのは、訳し終わらない語のほうです。ある言語から別の言語へ移すとき、語も概念の網の目もそのままでは重ならない。その差異が現れる場所を指す標識、という位置づけになります。

ドイツ語の Dasein、ギリシャ語の logos。この辞典には、何度も訳し直されてきた語が並びます。

青の切れ目

ロシア語には、英語の blue にあたる一語がありません。明るい青の goluboy と、濃い青の siniy が別々の基本色名として立っています。Scientific American が紹介する一連の実験では、ロシア語話者は二つの色がこの境界線をまたぐとき、同じカテゴリー内で比べるときより速く違いを見分けました。ただし同時に言語的な課題をやらせると、その優位は消えてしまいます。言語が知覚そのものを作り替えているというより、判断を後押ししている程度の差です。

訳す側からすると、この程度の差でも面倒ではあります。原文の blue がどちらの青なのか、原文が区別していない以上は確かめようがありません。

明治がこしらえた訳語

この問題を極端な形で引き受けたのが、明治の日本語です。

漢文訓読という長い前史があり、そのうえで明治の日本は、西洋の学問と制度を丸ごと翻訳で取り込もうとしました。長沼の論文が引く矢野文雄『訳書読法』の序には、「方今訳書出版ノ盛ナルヤ、其ノ数幾万巻」とあります。社会、個人、自然、権利、自由、恋愛、存在。いま当たり前に使っている語の多くが、このとき対応する原語を持たされて作られました。

翻訳語論で知られる柳父章は、こうしてできた語に独特の性質があると指摘しています。意味がよくわからないのに、なんとなく深遠に響くのだといいます。彼はこれをカセット効果と呼びました。中身の見えない小箱が、見えないがゆえに宝物めいて見えるという比喩です。読者は意味を受け取らないまま、その語を尊いものとして扱います。等価が成立していないことが、かえって語の権威になりました。

さらに柳父は、近代日本語の文体そのものが翻訳の産物だと見ています。長沼が引く議論によれば、西洋語の主語を受け止めるために日本語に「主語」らしい文法要素が作られ、それを結ぶ「である。」という文末語も作られました。上から下へ降りてくる演繹的な論理を運ぶための装置です。最先端の未知の概念を持ち運ぶのに、この形は都合がよかったといいます。

ここには妙なねじれがあります。時枝誠記の文法論に従えば、日本語の文末は本来「主体的なものの表現」でした。そこへ客観的な判断内容を流し込むのですから、近代日本語の翻訳文は、客観を主観の器に収めるという矛盾した構造を抱えることになります。柳父はこれを、未知の概念を未知のまま受け取る態度だと説明しています。

ちなみに、この柳父の議論は長沼の論文を通してしか確認できませんでした。翻訳語をめぐる話が、また別の書き手の要約を経由して届く。読んでいて少し可笑しくなった箇所です。

明治の翻訳事業を、西洋への追随と切り捨てるのは簡単でしょう。ただ、訳語を作るという選択そのものは、原語をカタカナのまま輸入する道より手間のかかる決断でした。

機械はどこまで来たか

NTTの研究紹介によれば、ニューラル機械翻訳は文全体の意味をとらえる点で従来手法より進み、実用の水準に達しました。一方で、専門性の高い分野は対訳データが乏しく精度が出にくいままです。特許の請求項のような長い文になると、精度は落ちる傾向があるとされています。

大規模言語モデルについては、NTT技術ジャーナルに載った永田昌明氏の話が具体的です。現段階のLLMの翻訳精度は従来のニューラル翻訳と同等で、しかしパラメータ数は1000倍あるため処理は明らかに遅いのだそうです。今後の課題として挙がっているのは、品質評価、誤りの検出と訂正、事実性の確認、それにバイアスの検出。ここは同じ組織の技術者による見通しなので、業界全体の合意というより一つの立場として読むのが妥当でしょう。

課題の一覧に、バイアスの検出が並んでいます。性別や立場を勝手に決めてしまう問題は、ヤコブソンが「I hired a worker」で書いていたものと同じです。

参考・出典

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