本住吉神社はなぜ「本」を名乗るのか——日本書紀の地名と、延喜式に載らない元宮の主張

本住吉神社はなぜ「本」を名乗るのか——日本書紀の地名と、延喜式に載らない元宮の主張 歴史

神戸市東灘区に、本住吉神社という神社があります。最寄りの阪神電車の駅名も、町名も「住吉」。境内はこぢんまりとしていて、ふだんは近所の人がふらりとお参りに来るような、静かな社です。

ただ、名前をよく見ると引っかかります。住吉といえば、大阪の住吉大社を思い浮かべる人が多いはずです。全国に2300社ほどあるという住吉神社の総本社で、初詣の人出でも関西有数の大社。それに対して神戸のこちらは、頭に「本」の一字を付けて「本住吉」と名乗っています。本家の本、本元の本です。

総本社は大阪にある。なのに神戸の小さな社が「本」を名乗る。これは、どういうことなのでしょう。

「本」が主張していること

本住吉神社のいう「本」は、控えめな意味ではありません。住吉の神を最初に祀ったのは自分たちの土地であって、大阪の住吉大社のほうが当社から分かれて出たもの——勧請されたものだ、という主張です。元宮、つまり大本の宮であるという誇りを、社名のたった一字に込めている。

根拠になっているのは、『日本書紀』の一節です。

船が止まった、という話

話は神功皇后までさかのぼります。

『日本書紀』によれば、新羅への遠征を終えた神功皇后が船で難波へ帰る途中、なぜか船が進まなくなります。武庫の港(務古水門)にとどまって神意をうかがうと、神々がそれぞれ「ここに住みたい」と告げた、というのです。

おもしろいのは、このとき名乗りを上げた神が一柱ではないことです。天照大神の荒魂は廣田の国に、稚日女尊は生田に、事代主は長田に、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神は「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」に祀られた、と書かれています。廣田神社・生田神社・長田神社、そして住吉。神戸から西宮にかけて今も残る古い社が、一度の帰り道でまとめて生まれた、という筋立てです。

年代は資料によって少しずれます。廣田神社の伝えでは創祀は神功皇后摂政元年、西暦でいう201年ごろ。住吉大社のほうは摂政11年(211年)の鎮座とします。いずれにせよ、3世紀の初めごろの出来事として語られている、と思っておけばよさそうです。

問題は、住吉三神が祀られたという「大津渟中倉之長峡」が、どこを指すのか、です。

その地名はどこを指すのか

通説では、大津渟中倉之長峡は現在の大阪・住吉大社の地とされています。住吉大社も、この神託によって今の住吉の地に鎮まったと由緒に記しています。

ところが本住吉神社は、それは自分たちの土地のことだと譲りません。神戸の住吉こそが日本書紀のいう場所で、住吉信仰の発祥はここだ、という。同じ一文を、両者の由緒はまるで違う土地の話として読んでいるわけです。

ここで効いてくるのが、さきほどの「四社まとめて」という話です。廣田は西宮、生田と長田は神戸。住吉三神をのぞく神々は、どれも神戸・西宮のあたりに落ち着いています。その並びの中で住吉だけが、海をはさんだ対岸の大阪へぽつんと飛ぶ。神戸の住吉に祀られたと読むほうが、地理のうえでは素直ではないか——というのが、本住吉側の言い分です。

この当地説には、心強い後ろ盾もいました。江戸の国学の大家、本居宣長です。調べていて意外だったのは、宣長ほどの人が神戸の住吉を推していたと地元で語り継がれていることでした。住吉信仰の本拠は大阪ではなく神戸にあった、と本気で考える学者が江戸時代にいた。そう知ると、この主張を郷土びいきの一言で片づけるわけにもいかなくなります。ただ、宣長が支持したという話自体も本住吉の側に伝わるもので、決定的な物証というより、論争に厚みを足す一枚、というのが正直なところでしょう。

延喜式に名前がない

とはいえ、本住吉神社の旗色がいいかというと、そうとも言えません。むしろ、かなり不利な事実があります。

平安時代の927年にまとめられた『延喜式』の神名帳は、当時の朝廷が把握していた全国の神社を載せた、いわば公式の名簿です。ここに大阪の住吉大社は「住吉坐神社四座」として名神大社に列し、のちには二十二社にも数えられ、摂津国一宮として扱われています。格式は折り紙つきです。

一方で、本住吉神社の名は、この神名帳に見当たりません。住吉信仰の「本」を名乗り、1800年の由緒を主張する社が、10世紀の公式名簿に載っていない。古さの証明としては、これはかなり痛いところです。

もっとも、式内社でないことが、その神社の新しさの証明になるわけでもありません。当時の事情で名簿から漏れた古社は各地にあります。ただ、古さを示す公の裏づけを欠いているのは確かで、本住吉が論争を押し切れないのも、半分はこのせいでしょう。

「本住吉」という名前の年齢

ややこしいのは、「本住吉神社」という名前そのものの来歴です。

兵庫県立歴史博物館の解説によれば、この社は江戸時代から名所図会や名所案内にかならず登場する、よく知られた存在でした。社前を通る道は、江戸の昔は山陽道、いまの国道2号にあたります。地元では古くから「本住吉」と呼ばれてきました。

ところが明治のはじめ、役所がつくった神社の明細書では、ただの「住吉神社」と記録されてしまいます。社が「本」の一字を取り戻し、正式に「本住吉神社」と名乗れるようになったのは、1908年になってからのことでした。

主張の中身は1800年前にさかのぼるのに、いまの正式名称は100年あまり前のもの。この時間差が、私はかえって気に入っています。

震災と、だんじり

阪神・淡路大震災では、本住吉神社の社殿も大きく壊れ、いまの建物はそのあと建て直されたものです。それでも5月になれば、8台のだんじりが宮入りして、界隈はにぎわいます。

大津渟中倉之長峡がどこだったのかは、今も決着していません。大阪が有力で、神戸が食い下がる。その答えの出ない問いを抱えたまま、本住吉神社は住吉という町の真ん中に建っています。

参考・出典

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