いま目の前にあるこの文字も、AからZまでの26文字の組み合わせでできています。私たちはそれを当たり前のものとして使っていますが、この26個の記号には、それぞれ生まれた土地と、3000年を超える来歴があります。しかも、ラテン文字もギリシア文字も、さらにはヘブライ文字やアラビア文字までもが、たどっていくとおおむね一つの発明に行き着くらしい。
その出発点は、ヨーロッパでもギリシアでもなく、エジプトの砂漠のあたりにありました。
絵文字を「音」に読み替える
古代エジプトには、ヒエログリフという壮麗な文字がありました。鳥やへび、水の波を象った絵文字です。ただしこれは、覚えるべき記号が数百から千を超える、専門の書記のための体系でした。
紀元前1900年から1500年ごろ、エジプトに接していたセム語系の人々——シナイ半島の鉱山で働いた労働者たちだった、という説が有力です——が、このヒエログリフを思いがけない形で借用します。文字辞典サイトのオムニグロットの解説によれば、彼らはエジプトの絵文字のうち約30個を選び、絵の意味そのものではなく、その絵をセム語で呼んだときの音の頭だけを使うようにした。これを頭字法(アクロフォニー)といいます。
具体例が分かりやすい。牛を表す絵は、セム語で牛を「アレフ(aleph)」と呼ぶことから、語頭の子音の記号として使われました。家を表す「ベート(bet)」は b の音に。水を表す「メム」は m に。絵を音のかけらへ読み替えることで、数百の記号を覚えなくても、二、三十の記号だけで言葉を書けるようになったわけです。これが原シナイ文字と呼ばれる、アルファベットのいちばん古い姿だと考えられています。
ここには、まだ分かっていないこともかなり残っています。ブリタニカは、シナイ半島で見つかった初期の碑文が今なお完全には解読されていないと述べています。個々の字がどの音を表したのか、確実に読めない部分がある。1905年に考古学者ピートリーがシナイの遺跡で碑文を見つけ、のちにガーディナーがそのいくつかを女神バーラトの名と読んだあたりから研究は進みましたが、全体像はまだ像を結びきっていません。エール大学のダーネルらは、エジプト内陸のワディ・エル・ホルで見つけた碑文をもとに、この文字の誕生をエジプト中王国の時代までさかのぼらせる説を出しています。
22文字で足りた——ただし母音がない
この原シナイ文字が整理され、地中海の交易民フェニキア人の手で使いやすくまとまったものが、フェニキア文字です。ブリタニカによれば、22の子音字からなり、右から左へ書く。母音を表す字がないのが特徴です。成立や標準化の時期には幅があり、紀元前11世紀から12世紀ごろとされ、最古の確実な例はビブロスで見つかったアヒラム王の石棺の碑文だといいます。
母音がないと聞くと不便そうですが、セム語系の言葉は子音の並びが語の骨格を担うため、子音だけでもかなり読めます。日本語で「TKYT」と書いて「東京都」と察するのに近い感覚でしょうか。この身軽さと、フェニキア人が地中海一帯に張り巡らせた交易網が合わさって、文字は各地へ運ばれていきました。ブリタニカは、このフェニキア文字こそがギリシア文字をはじめ西洋のあらゆるアルファベットの祖だと位置づけています。
母音という発明
文字の歴史でいちばんの転換点は、そのフェニキア文字を受け取ったギリシア人が起こしました。
ギリシア語はセム語と違って、母音を書き分けないと意味が定まりにくい言葉でした。そこでギリシア人は、自分たちの言葉では使わないフェニキアの子音記号を、余らせるのではなく母音に転用します。喉の子音を表していたアレフは母音の a に、別の記号は e や o に。こうして子音と母音の両方をそろえた、いわば史上初の「真のアルファベット」ができあがりました。World History Encyclopedia の解説では、ギリシア人が母音を加えたのは紀元前800年から700年ごろで、古典期のギリシア文字は24字、うち7字が母音だったとされています。
このとき、字の名前はセム語のまま引き継がれました。アレフはアルファ(alpha)、ベートはベータ(beta)に。「アルファベット」という言葉そのものが、この最初の2文字をつないだ呼び名です。牛と家をつなげた名が、文字の体系全体を指すようになりました。
ちなみに、フェニキア文字から広がったのは、このギリシア系だけではありません。ヘブライ文字やアラビア文字、さらに遠くインドの文字群まで、根をたどれば同じ発明に行き着くと考えられています。私たちの26文字も、そのうちの一つにすぎません。
西へ渡って、並べ替えられる
ギリシア文字は、地中海を西へ渡ってイタリア半島のエトルリア人に伝わり、そこからローマ人のラテン文字になりました。ローマ人は必要な字を選んで受け継ぎ、いらない字を捨て、足りない字を作ります。
ブリタニカがまとめたラテン文字の変遷をたどると、その手つきが見えてきます。ローマ人ははじめエトルリアから21字を採り、やがて使わない Z を外して、その空いた場所に、C へ横棒を足した新しい字 G を据える。伝承では紀元前3世紀のスプリウス・カルウィリウス・ルガという人物が G を考案したとされますが、これは後世に語られた話で、確かなことは分かりません。さらに紀元前1世紀、ギリシア語由来の言葉を書き写すために Y と Z を末尾へ呼び戻して、字数は23。
残る3字がそろうのは、ずっと後、中世を過ぎてからです。もともと一つだった I から子音の J が、V から母音の U が枝分かれし、V を二つ重ねた W が加わって、ようやく現在の26字になりました。J が I から分かれ始めたのは14世紀ごろ、はっきり別の字として定着したのは17世紀で、ブリタニカはこれをアルファベットのなかでいちばん若い字の一つに数えています。J も U も、中世まではまだ独立した字ではなかったのです。
「27番目の文字」だった記号
もう一つ、余談めいた話を。19世紀のイギリスでは、アルファベットは26文字ではなく、27文字として教えられていた時期がありました。
その27番目が、いまも「&」として残るアンパサンドです。もとはラテン語で「〜と」を意味する et を、2文字つなげて書いた合字でした。子どもたちがアルファベットを暗唱するとき、Z のあとに続けてこの記号を読み上げ、「and, per se, and(それ自体で and と読む and)」と唱える。メリアム・ウェブスターによれば、この「and per se and」がなまって、ampersand という名になったそうです。字の一覧の末席にいた記号が、やがて列から外れ、記号として生き延びました。
そして最初のA。この字をぐるりと回してみると、2本の脚を開いて上に横棒が渡った形が、逆さの三角に見えてきます。Aはフェニキアのアレフ、すなわち牛を表す記号にさかのぼり、もとは牛の頭の形だった、とブリタニカにあります。角を上にした頭が、書かれ、運ばれ、傾き、回転するうちに、いまのAの姿に落ち着いた。毎日のように打ち込んでいるこの一文字の底には、砂漠で数えられていた牛の頭が、いまも角を上にして沈んでいます。
参考・出典
- John Coleman Darnell(Yale University, NELC)「Two Early Alphabetic Inscriptions from the Wadi el-Hôl」 https://nelc.yale.edu/publications/two-early-alphabetic-inscriptions-wadi-el-hol-new-evidence-origin-alphabet-western
- Encyclopædia Britannica「Alphabet」 https://www.britannica.com/topic/alphabet-writing
- Encyclopædia Britannica「Phoenician alphabet」 https://www.britannica.com/topic/Phoenician-alphabet
- Encyclopædia Britannica「Greek alphabet」 https://www.britannica.com/topic/Greek-alphabet
- Encyclopædia Britannica「Later development of the Latin alphabet」 https://www.britannica.com/topic/alphabet-writing/Later-development-of-the-Latin-alphabet
- Encyclopædia Britannica「A (letter)」 https://www.britannica.com/topic/A-letter
- Barry B. Powell ほか, World History Encyclopedia「Greek Alphabet」 https://www.worldhistory.org/Greek_Alphabet/
- Omniglot「Proto-Sinaitic / Proto-Canaanite scripts」 https://www.omniglot.com/writing/protosinaitc.htm
- Merriam-Webster「The History of ‘Ampersand’」 https://www.merriam-webster.com/grammar/the-history-of-ampersand


