旧国名はなぜ今も生き残っているのか——法令で消えなかった名前と、県境とずれる国のかたち

旧国名はなぜ今も生き残っているのか——法令で消えなかった名前と、県境とずれる国のかたち 言葉

スーパーの棚を眺めていると、「信州そば」が並び、果物売り場には「伊予柑」、芋の袋には「薩摩芋」と書いてあります。信州は信濃国、伊予は伊予国、薩摩は薩摩国。どれも、学校では「明治に廃止された」と教わる旧国名です。

廃止されたはずの名前が、なぜ現役の商品名として通用しているのでしょうか。気になって調べていくと、前提のほうがあやしいことに気づきます。令制国は、そもそも法令で廃止されたことが一度もありません。

「廃止」されていない

「旧国名は明治の廃藩置県でなくなった」とよく言われます。けれど、これは二つの意味で正確ではありません。

まず、1871年(明治4年)の廃藩置県で廃止されたのは「藩」であって、「国」ではありませんでした。藩は江戸時代に大名が治めた領地の単位で、令制国はそれよりずっと古い、奈良時代に律令制とともに整えられた行政区画です。廃藩置県は藩を県に置き換えた改革で、その上に重なっていた国の枠を名指しで消したわけではありません。

では令制国はいつ法令で廃止されたのか、というと——されていません。Wikipediaの「令制国」の項も「法令による廃止はされていない」と書いています。国司という役職が廃され、行政の実権が府県に移ったことで、国は統治の単位としての中身を失いました。ただ、制度として正式に葬られた瞬間は存在しないのです。

代わりに起きたのは、もっと地味な交代でした。戸籍や郵便といった、毎日の暮らしで住所を書く場面から旧国名が外され、府県の名前に置き換わっていきます。名前は禁止されたのではなく、書く欄を失って静かに廃れていった、という言い方が近いようです。実権を失っても廃止はされていないので、地名としてなら今も普通に使えます。「信州そば」が法に触れないのは、そういう事情です。

信州そばの「信州」は、どこの名前か

信濃国は、鎌倉時代ごろから「信州」とも呼ばれてきました。「州」は「国」とほぼ同じ意味で、信濃国を縮めた呼び名です。長野県では今でも、行政の名である「長野県」より、「信州」「信濃」のほうを好んで掲げる場面が少なくありません。

その代表格が信州そばです。長野県公式観光サイトの解説によると、江戸初期に「そば切り」——今のような細く切ったそば——が登場し、1645年の俳諧書『毛吹草』には「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」と記されています。発祥の里とされるのは、現在の塩尻市にあった本山宿。米や小麦の育ちにくい高冷地で、そばが土地に合った作物として根づいたことが背景にあります。

おもしろいのは、ブランドとして使われているのが「長野そば」ではなく「信州そば」だという点です。県名より旧国名のほうが、土地の食べ物の看板として据わりがいいのです。同じことは果物にも起きています。

伊予柑の「伊予」は、愛媛県の旧国名です。のま果樹園の「みかん大事典」によれば、この柑橘が見つかったのは愛媛ではなく、1886年ごろの山口県萩の園で、はじめは「穴門蜜柑」と呼ばれていました。1889年に三好保徳が苗木を導入して愛媛で広め、やがて産地の旧国名をとって「伊予蜜柑」に。愛媛で先に作られていた温州みかんと紛らわしいため、1930年(昭和5年)に「伊予柑」と改名されて、今の名前に落ち着きます。生まれは山口でも、育った土地の古い名前を名乗っているわけです。

薩摩芋の「薩摩」も同じで、鹿児島の旧国名です。芋の原産地はずっと南の中央アメリカですが、薩摩を経て各地へ広まった経路のほうが名前として残りました。

県の名前に、旧国名はあまり選ばれなかった

ここで一つ、ひっかかることがあります。地名として使えるのなら、なぜ明治政府は県の名前に旧国名をそのまま採らなかったのでしょうか。鹿児島県は薩摩県でも、愛媛県は伊予県でもよかったはずです。

実際、多くの県名は旧国名ではなく、県庁が置かれた町の名や、その郡の名から付けられています。これについては有名な説があります。ジャーナリストの宮武外骨が1941年の著作『府藩県制史』で唱えた、いわゆる「賊軍藩」説です。戊辰戦争で新政府に忠勤を励んだ藩の地域には藩の名をそのまま県名にし、刃向かった「朝敵藩」や態度の曖昧だった藩の地域では、あえて郡や山や川の名を県名にした——という主張です。

これが俗説のたぐいなのかどうか、RKB毎日放送が改めて検証した記事が手堅くて、読みごたえがありました。それによると、忠勤を励んだとされる藩の県はおおむね藩名と県名が一致し、朝敵とされた藩の地域では藩名が県名から外されています。説は「かなり成り立つ」というのが記事の評価です。一方で例外もあって、たとえば福島県や山形県は同盟軍側でありながら県名が地名と一致しています。戦後に藩主が国替えになり、もうそこに旧藩が直結していなかったから、と外骨自身が説明しているそうです。紀州の和歌山県のように、外骨でも理由を言いきれない例も残っています。

真偽の決着はさておき、この話が旧国名の生き残りに関わっているのは確かです。県の名前という公の表舞台から押し出された結果、旧国名は地名やブランド、お国自慢の側へと居場所を移しました。

兵庫県は「五国」か、七つの国か

旧国名がややこしいのは、今の県境と、昔の国境がきれいに重ならないことです。住んでいる県の名前は一つでも、その下に旧国の境界が、ずれたまま埋もれていることがあります。

兵庫県は、その見本のような県です。県自身が「五国からなる県」を看板に掲げていて、摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五つの旧国にまたがっています。この形になったのは、兵庫県公式サイトの説明では1876年(明治9年)8月のこと。開港場である神戸を抱える兵庫県の力を充実させたいという大久保利通の意向もあって、飾磨県(播磨)、豊岡県(但馬・丹波)、名東県(淡路)が次々に統合され、ほぼ今の県域が確定しました。性格のまるで違う五つの地域が、行政の都合で一つの県に束ねられたわけです。

ところが、この「五国」もきっちりした数ではありません。県の西の端、赤穂市福浦のあたりは、旧国でいえば備前国です。しかもここは1963年(昭和38年)に、岡山県和気郡日生町から県境を越えて赤穂市へ編入された土地でした。佐用町の一部にも、かつて美作国だった地区があります。厳密に旧国で割れば、兵庫県は五つではなく七つの国にまたがっていることになります。看板の「五国」からこぼれた二つは、岡山側との境にちょこんと食い込んでいるわけです。県の境は、明治のあとも動いてきました。

なぜ消えなかったのか

最後に、名前そのものの形にも触れておきます。旧国名の多くが漢字二字なのは、713年(和銅6年)の「諸国郡郷名著好字令」、いわゆる好字二字令によります。全国の地名を、縁起の良い漢字二字で表記せよ、というお触れです。国立国会図書館のレファレンス事例によれば、『続日本紀』のこの年の条に「畿内七道諸国郡郷着好字」と記され、当時の先進国だった唐の地名が「長安」のように二字だったのにならって、国の体裁を中国風に整えようとしたものだとされています。一字や三字だった地名が、このとき無理やり二字にそろえられました。

千年以上前に体裁のために整えられた二字の名は、短くて、語呂がよくて、看板に書きやすいものでした。信州、伊予、薩摩、但馬。役所の住所からは外れても、そばの袋や牛のブランドや、地元の人の口のなかには、ちゃんと残りました。法令で廃止されなかった名前が、表の制度を追われたぶん、別の出口で生き延びました。スーパーの棚に並ぶ「信州そば」は、その出口の一つです。

参考・出典

タイトルとURLをコピーしました