神戸の中心部、JR神戸駅のすぐそばに、緑深い境内を持つ神社がある。地元では長く「楠公さん(なんこうさん)」と呼ばれてきた湊川神社のことだ。正月には全国から100万人を超える参拝者が訪れるこの神社の祭神は、人物である。楠木正成(くすのきまさしげ)——南北朝時代の武将で、今から約690年前、まさにこの神戸の地で生涯を閉じた人物だ。
なぜ、一人の武将を祀るための神社が建てられたのか。そしてなぜ、彼は今なお「楠公さん」と親しまれ続けているのか。
楠木正成とはどのような人物だったのか
楠木正成は、永仁2年(1294)、河内国赤坂(現在の大阪府千早赤阪村)に生まれた。河内の豪族の家柄で、学問を寺の僧に、兵法を毛利時親に学んだとされる。文武にわたる素養を備えた人物として伝わっている。
歴史の表舞台に登場するのは、元弘元年(1331)のことだ。鎌倉幕府打倒をめざす後醍醐天皇に呼応して挙兵した正成は、大軍の幕府軍に対して奇策を用いた籠城戦を展開。数万の幕府軍を翻弄し続けたその戦いぶりは、各地の武士たちの蜂起を誘う呼び水となった。鎌倉幕府の崩壊に大きく貢献したのち、正成は隠岐を脱出した後醍醐天皇を兵庫の津で迎え、京都へと導いた。
建武の新政が始まると、正成は最高政務機関の記録所寄人に任じられ、天皇のもとで政務に当たった。しかし、新政への不満を蓄えた足利尊氏がやがて反旗を翻す。正成は情勢を冷静に読み、尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言した。武家政権なき公家中心の政治では武士を統制することは難しいと見抜いていたのだろう。しかしこの献策は、朝廷の公卿たちに受け入れられなかった。
湊川での最期——「七生滅賊」の誓い
延元元年(1336)5月25日、九州から兵を立て直して東上してきた足利尊氏・直義兄弟の大軍が、海陸から摂津国湊川(現在の神戸市)に迫った。楠木軍はわずか700余騎。正成はすでに勝算のない戦いであることを承知しながら、戦場へと向かっていた。
その途中、桜井の駅(現在の大阪府島本町)で、同行しようとした嫡男の正行(まさつら)を河内へ帰した。「自分が討ち死にしたあとのことを考えてのことだ」と諭し、後醍醐天皇から賜った菊紋の短刀を形見として手渡したという。「桜井の別れ」として後世に語り継がれる場面だ。
戦いは朝から夕方まで6時間にわたった。正成・正季(まさすえ)兄弟の率いる楠木軍は足利直義の大軍に16度の突撃を繰り返し、直義の近くにまで迫る奮戦を見せた。しかし多勢に無勢、ついに73騎にまで数を減らした楠木軍は、湊川の東にある民家へと落ち延びた。
軍記物語『太平記』は、最期の場面をこう伝える。正成が弟の正季に「次はいかに生まれたいか」と問うと、正季は「七度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と答えた。正成も同じ思いだと述べ、兄弟は刺し違えて自害した、と。この言葉が「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」として長く語り継がれることになる。
ただし近年の研究では、この「七生滅賊」はもともと中世的な怨念の表現であり、後代に国家への忠誠を示す「七生報国」という意味に読み替えられていったとも指摘されている。正成が深く仏教に帰依した人物であったことを示す写経の記録(湊川神社宝物)も残っており、実像と後世の語られ方との間には、一定の距離があることも念頭に置いておく必要がある。
500年をかけて建てられた神社
正成の墓所が歴史の表舞台に出たのは、殉節から約250年後の文禄年間(1592〜1596)のことだ。豊臣秀吉の太閤検地の際、片桐且元が検地を行ったところ、楠木正成が葬られた場所だとわかり、24坪が免租地とされた。
その後、江戸時代に入ると、水戸藩主・徳川光圀が整備に乗り出す。元禄5年(1692年)、光圀は自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建立した。この墓碑は現在も湊川神社の境内に残り、国の史跡に指定されている。建碑以来、墓所の参拝者は一日千人以上にのぼったとも伝えられ、西国街道を行き交う人々の参拝が絶えなかった。
幕末になると、吉田松陰・坂本龍馬・西郷隆盛・高杉晋作・伊藤博文らが相次いでこの墓前に額づいた。松陰は楠公墓碑の拓本を松下村塾に掲げ、「楠公になることを人生の目標とした」とされる。倒幕派・佐幕派を問わず、楠木正成の精神は幕末の志士たちの精神的支柱のひとつとなっていた。
明治維新が実現すると、正成を神社に祀りたいという声は全国で高まり、薩摩藩・尾張藩・水戸藩らが競うように朝廷へ創建の請願を行った。最終的に、地元・神戸の伊藤博文らが連名で東久世通禧へ建議し、この請願が受理される。明治元年(1868年)、明治天皇は神社創建の御沙汰を下し、明治5年(1872年)5月24日、殉節から500年以上の時を経て、湊川神社が創建された。日本の近代神社史上、初めて別格官幣社に列せられた神社である。
「楠公さん」が象徴するもの——時代を超えた評価
湊川神社が建てられた後も、楠木正成という人物への評価は時代によって変容を続けた。明治以降、正成は天皇への忠誠を体現した「大楠公(だいなんこう)」として国民教育に組み込まれ、明治13年(1880年)には正一位が追贈された。皇居外苑には正成の銅像が建てられ、その像は今日も東京の一角に立っている。
一方で、近代化の過程で楠公精神は変容し、太平洋戦争期には「七生報国」のスローガンへと展開した。沖縄戦での特攻作戦が正成の家紋・菊水にちなんで「菊水作戦」と命名されたことは、この変容の一端を示している。
敵対した足利尊氏も正成の能力を高く評価し、室町幕府の歴史書『梅松論』でさえ「敵も味方も惜しまない人はなかった」とその最期を称えたとされる。戦国時代には真田昌幸・幸村父子が楠木流の兵法を手本とし、江戸時代には講談や浄瑠璃の題材として庶民に親しまれた。明治維新には志士たちの精神的な支柱となった。
一人の武将が、これほど多様な時代と文脈で語り直されてきた例は、日本史でも類を見ない。
神戸の地に残るもの
今日の湊川神社の境内には、正成が弟・正季とともに自害した「御殉節地(ごじゅんせつち)」と、徳川光圀が建立した墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」がともに国の史跡として保存されている。社殿は神戸空襲で焼失したため、昭和27年(1952年)に再建された。全国の著名画家が奉納した天井画164点が本殿に収められ、宝物殿には「段威腹巻(だんおどしはらまき)」(伝正成公着用)や自筆の「法華経奥書」など、国の重要文化財に指定された品々が展示されている。
湊川神社は、単なる英雄崇拝の場ではない。ひとりの武将がどのように死に、どのように語り継がれ、どのように時代に利用され、そして今日どのように記憶されているかを問い直す場所でもある。「楠公さん」という呼び名の親しみやすさの奥に、700年近い歳月が折り重なっている。
参考・出典
- 湊川神社公式サイト「楠木正成公のご生涯」 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/kusunoki/
- 湊川神社公式サイト「湊川神社の由緒」 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history/
- 湊川神社公式サイト「湊川神社の創建」 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_foundation/
- 湊川神社公式サイト「楠公崇敬の歴史」 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_kusunoki/
- 文化遺産オンライン「楠木正成墓碑」(文化庁) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210720
- Wikipedia「湊川神社」 https://ja.wikipedia.org/wiki/湊川神社
- Wikipedia「楠木正成」 https://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成
- Wikipedia「湊川の戦い」 https://ja.wikipedia.org/wiki/湊川の戦い


