湊川神社——光圀の墓碑から始まり、最初の別格官幣社になるまで

湊川神社——光圀の墓碑から始まり、最初の別格官幣社になるまで 歴史

神戸の中心、三宮や元町から歩いてすぐの場所に、湊川神社はあります。地元では「楠公(なんこう)さん」と呼ばれて親しまれ、正月には100万人を超える初詣客でにぎわう大社です。祀られているのは、南北朝時代の武将・楠木正成。ここまではよく知られています。けれど、年表を二つ並べると妙なことに気づきます。正成がこの湊川で自害したのは1336年。神社が創建されたのは明治5年(1872年)。あいだに500年以上が空いているのです。亡くなってから社が建つまで、なぜこれほど長くかかったのか。逆にいえば、500年も経ってから、なぜいまさら神社が建てられたのか。

写真 : 湊川神社本殿 / 筆者撮影

楠木正成という武将

祀られている人物の素性は、じつははっきりしません。永仁2年(1294年)に河内国の赤坂、いまの大阪府千早赤阪村のあたりで生まれたとされますが、湊川神社の公式の解説ですら、数代さかのぼると駿河の北条得宗被官だったという説に触れる程度で、出自は確かでないのです。当時の史料は彼を「悪党楠木兵衛尉」と書きました。この「悪党」は今でいう悪者ではなく、荘園領主や幕府といった旧体制に逆らった新興の武士を指します。家柄ではなく実力でのし上がった地方の有力者、というあたりが実像に近いのでしょう。

歴史の表に出るのは元弘元年(1331年)。鎌倉幕府の打倒をはかる後醍醐天皇に呼応して挙兵します。彼の戦い方は、正面からぶつかれば勝てない相手を、地形と知略で削っていくものでした。下赤坂城ではいったん城を捨てて姿をくらまし、続く千早城では、千人ほどの兵で数万の幕府軍を山上に釘づけにする。この粘りが各地の蜂起を誘い、鎌倉幕府は崩れます。

幕府が滅んだあとも、後醍醐天皇の信任は厚いものでした。コトバンクに収録された国史大辞典などによれば、正成は建武の新政で河内・摂津・和泉の守護を兼ね、記録所や雑訴決断所といった中枢の職にも参画し、名和長年らとともに「三木一草」と並び称される側近にまでなります。土豪あがりの武士が、朝廷の政務の中心近くまで進んだわけです。

湊川の戦いと桜井の別れ

その新政は、長くは続きません。袂を分かった足利尊氏が反旗をひるがえし、一度は九州へ退いたものの、大軍を率いて東上してきます。迎え撃つにあたって正成は、朝廷に和睦や戦略の練り直しを進言しました。けれども献策は公卿たちに退けられ、勝ち目の薄い出撃を命じられます。

兵庫へ向かう途中、桜井の駅(現在の大阪府島本町あたり)で、正成は嫡男の正行(まさつら)を河内へ帰します。後世「桜井の別れ」として語り継がれる場面です。まだ幼い正行に、自分の代わりに天皇を守れと言い含めて去らせた——史実そのままかどうかは確かめようがありませんが、太平記を通じて広まり、近代には唱歌にまでなりました。

延元元年(1336年)5月25日、湊川での戦いが始まります。会下山(えげやま)のあたりで正成は700騎あまりを率い、朝から夕方まで足利の大軍と斬り結びました。やがて手勢は73騎。もはやこれまでと、正成は弟の正季(まさすえ)と刺し違えて果てます。43歳でした。

「七生」は何を誓ったのか

自害の間際に兄弟が交わしたとされる言葉が、のちのちまで一人歩きします。

太平記によれば、正成は弟に「来世はどう生まれ変わりたいか」と尋ねます。正季は「七度(ななたび)人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と答え、正成もうなずいた。これが「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」、七度生まれ変わってでも敵を討つ、という誓いです。湊川神社の公式サイトも、太平記の「七生まで只(ただ)同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」という一節を引いています。

この4文字は、時代をくだるあいだに中身が変わりました。もとの「七生滅賊」は、中世の怨霊観——恨みを残して死んだ者は祟る、という感覚に根ざした、かなり生々しい呪いに近い言葉です。それが近代に入ると、「七生報国(しちしょうほうこく)」、七度生まれ変わって国に報いる、という国家への忠誠の標語へと読み替えられていきます。太平洋戦争末期、沖縄戦の航空特攻「菊水作戦」の名は、正成の家紋・菊水から取られました。敵を呪う言葉が、いつのまにかお国のために死ぬ言葉として使われている。同じ言葉でも、誰がどんな時代に唱えるかで、ずいぶん違うものを背負わされてきたわけです。

一基の墓碑から

では、500年の空白を埋める最初の一手は、誰が打ったのか。意外なことに、楠木とは敵方にあたる徳川につらなる人物でした。

水戸藩主の徳川光圀です。光圀は元禄5年(1692年)、荒れていた正成の墓所を整え、「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と刻んだ墓碑を建てました。碑の裏の銘文を草したのは、明から亡命してきた儒者・朱舜水(しゅしゅんすい)と伝わります。光圀が編ませた『大日本史』は南朝を正統とする立場をとり、その水戸学が、後醍醐天皇に最後まで尽くした正成を「忠臣」の鑑として押し上げていく。徳川の世のただ中で、後醍醐方の武将の墓が大々的に顕彰される。この1基が、のちの崇敬の出発点になりました。

写真 : 楠木正成墓碑 / 筆者撮影

幕末になると、墓を訪れる人が目に見えて増えます。文久3年(1863年)、八月十八日の政変で京都を追われた三条実美ら七卿が、ここに立ち寄りました。吉田松陰は墓碑の拓本を松下村塾に掲げ、坂本龍馬・西郷隆盛・高杉晋作・伊藤博文といった面々も参ったと伝わります。倒幕へ走る志士たちが、よりにもよって徳川の重鎮が建てた墓に手を合わせ、自分たちの覚悟を確かめていた。彼らにとって正成は、天皇のために身を捨てる手本そのものだったのです。

500年後の創建

墓を核に高まった崇敬は、明治維新を境に、神社という器を得ます。

明治元年(1868年)、新政府は楠社の創建を命じ、造営費として1,000両を下賜しました。薩摩・尾張・水戸の諸藩や、伊藤博文ら地元神戸の働きかけも重なって、計画は具体化します。そして明治5年(1872年)5月24日、正成が倒れた湊川の地に湊川神社が鎮座しました。自刃から数えて536年後です。御祭神は正成を主神に、ともに散った弟の正季や嫡男の正行ら一族をあわせて祀ります。

この社には、もう一つ記録に残る顔があります。創建と同じ年の4月29日、湊川神社は日本で最初の「別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」に列せられました。別格官幣社は、明治政府がつくった社格の一つです。建勲神社の解説によれば、国の乱を平定して中興を助けた者や、国難に殉じた者など、国家に特別な功労のあった人物を祀る神社が対象とされました。湊川神社を皮切りに、織田信長を祀る建勲神社などが続き、昭和21年(1946年)の制度廃止までに、あわせて28社。その第1号が、楠木正成のための社だったわけです。新政府が自分たちの精神の源をどこに置こうとしたか、選び方に出ています。明治13年(1880年)には正成に正一位が追贈されました。

時代ごとに姿を変える

こうしてたどると、正成という人物が、時代ごとにまるで違う顔で呼び出されてきたことに気づきます。

評価のもとをたどれば、まず太平記が「智・仁・勇」を備えた理想の武将として描き、その像が広まりました。おもしろいのは、敵方の立場で書かれた『梅松論』ですら彼を惜しまれる人物として扱っていることです。戦国期には楠木流と呼ばれる兵法書が出回り、真田氏らがその知略を手本にしたと言われます。江戸の講談や浄瑠璃は正成を庶民の英雄に仕立て、一方で水戸学などの儒者は、南朝正統論と結びつけて「忠孝の臣」と称えました。

明治以降は、この延長線上で「大楠公(だいなんこう)」として国民教育に組み込まれます。修身の教科書に載り、皇居外苑には今も残る騎馬像が建ちました。没後600年にあたる昭和10年(1935年)には大規模な記念祭が営まれ、顕彰は頂点に達します。先に触れたとおり、戦時下では「七生報国」が動員の旗印になりました。コトバンクに引かれた解説は、明治から敗戦までの正成像を太平記以来の流れをくんだ「虚像」と呼び、戦後ようやく実像の研究が進んだ、と整理します。史料から立ち上がる正成は、新興の武士であり、地の利を生かす戦巧者であり、朝廷の実務官僚でもある。忠臣という一語ではとても足りません。1人の武将がこれほど多くの時代から、その都度ちがう役を振られて引っぱり出された例は、そう多くないでしょう。

神戸に残るもの

正成が自害したと伝わる「御殉節地」と、光圀の墓碑が立つ「御墓所」は、いずれも国の史跡です。神社より古い墓碑が、神社の真ん中に据わっている。社殿のほうは昭和20年(1945年)の神戸大空襲で焼け落ち、昭和27年(1952年)に再建されました。このとき本殿の天井には諸家から164点もの絵が奉納され、拝殿の天井には棟方志功らが筆をとった獅子の図が描かれています。

宝物には、正成が身につけたと伝わる「段威腹巻(だんおどしのはらまき)」や、正成自筆と伝えられる紙本墨書の法華経奥書があり、どちらも重要文化財です。真筆かどうかの確証はさておき、こうした品が大事に守り継がれてきたこと自体が、人々の思い入れの深さを示しています。墓碑があり、志士が通い、ようやく社が建ち、やがて焼けてまた建て直された。正成が「神」になるまでの500年は、そのまま日本史がこの1人をどう扱ってきたかの記録でもあります。

参考・出典

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