万里の長城と聞くと、多くの人が同じ絵を思い浮かべます。北の草原からなだれ込む騎馬民族を、山の尾根を這う一枚の巨大な壁がはね返している——そんな絵です。宇宙から見える唯一の建造物だ、という話もよく添えられます。ところが、この壁について具体的に調べていくと、その絵はあちこちで実物とずれていきます。壁は一枚ではなく、一度に造られたものでもなく、そもそも「はね返す」ためだけのものでもありませんでした。
壁は一枚でも一度でもない
まず、私たちが写真で見る長城は、そのほとんどが明代(1368〜1644年)のものです。観光地として有名な八達嶺や慕田峪の、煉瓦を積んだ堅牢な壁は、長い歴史のいちばん最後に造られた版にあたります。
壁づくりの発想自体はずっと古く、紀元前の春秋・戦国時代にさかのぼります。斉や燕など、北方や隣国と接する国々が、めいめいに土の壁を築いていました。それを一つにつなげたのが秦の始皇帝です。ブリタニカ百科事典の記述では、始皇帝は将軍の蒙恬に北辺の守りを命じ、紀元前214年ごろから秦・燕・趙が築いていた壁を連結させたとされます。工事には数十万の兵士と徴発された民が動員されました。
このとき造られた壁は、煉瓦ではありません。多くは版築という工法で、木の枠のなかに土を入れ、棒で突き固めては積み上げていく。乾いた土地では、これが驚くほど長く残ります。日本語の世界史解説サイトによれば、秦の長城は西の甘粛省から東の遼東まで、およそ4,000kmに及んだといいます。
交易の道を守る壁
壁の役割が「防御」に尽きないことは、続く漢代を見るとよく分かります。漢は長城を西へ大きく延ばしました。目的の一つは、シルクロードの保護です。ワールドヒストリー百科事典によれば、漢の武帝は紀元前130年ごろに西域との交易を本格的に開き、長城はその交易路を守り、また管理する役目も担うようになりました。武帝は一定間隔で烽火台を築かせ、異変があれば煙と火で守備隊の間に信号を伝えるしくみも整えたと、中国旅行のガイドサイトは説明しています。
ここが、壁のイメージのなかで案外抜け落ちている点です。長城は外を完全に締め出す閉じた線ではなく、むしろ人と物の出入りを「管理する」ための膜でした。関門には市が立ち、通行を検め、交易品に税をかける。ブリタニカも、長城の役割として国境管理と、シルクロードを運ばれる物品への課税を挙げています。
煉瓦になった壁
私たちの知る、あの重厚な長城が現れるのは明代です。きっかけは軍事的な危機でした。1449年、明の皇帝が親征したモンゴル軍に大敗し、皇帝自身が捕らえられるという事件が起きます。土木の変です。北の脅威が現実のものとなり、明は防衛線の立て直しに迫られました。
15世紀後半から、長城の大改修が始まります。日本語の世界史解説をたどると、1474年に憲宗のもとで修築が着手され、およそ100年をかけて、西の寧夏から東の山海関まで、現在の姿の長城が築かれていきました。材料は土から煉瓦・石へと変わります。中国旅行ガイドの説明では、材料は現地で調達され、要所には石板と青い煉瓦が使われました。壁の高さや幅は場所によりまちまちで、険しい尾根では低く狭く、平地や軍事拠点では高く広く造られています。
この時代の防御を格段に引き上げたのが、将軍・戚継光が考案したとされる空心の望楼です。中がうつろな造りで、兵が寝泊まりし、武器を蓄え、そこから攻撃もできる。壁・望楼・烽火台・関所・城が一体となった、統合的な軍事システムができあがりました。ある集計では、明の長城には11の鎮に9万人を超える兵が配され、156の県をまたいで走っていたとされます。
それで、効いたのか
ここまで来ると、素朴な疑問がわきます。これだけの労力と人命をかけて、壁はほんとうに役に立ったのでしょうか。
答えは、歯切れよくありません。ナショナル・ジオグラフィックは、明の長城を「不完全な防御」と評しています。壁そのものは強固で、煉瓦は鉄筋コンクリートに匹敵する堅さだったとも言われます。それでも北辺への攻撃は絶えず、ときに10万規模の軍が押し寄せました。同誌が挙げるのは、構造ではなく人の問題です。守備兵は過酷な環境と薄給に置かれ、敵が近づくと戦わずに逃げる者がいた。国境の兵がモンゴル側と堂々と交易し、ときには略奪隊の道案内までした、という話まで残っています。
壁より効いたものもありました。1571年、明はモンゴル側との交易の場を認める方向へ政策を転じます。同誌は、この交易の再開が、それまでの補助金や軍事遠征よりも襲撃を減らした、と指摘しています。何百年も壁を築いては守り続けた末に、いちばん平和に効いたのが、敵を締め出すのではなく交易を許すことだった。皮肉な話です。
壁を越えたのは誰か
そして、長城の歴史でいちばん語られる「突破」も、力ずくで壁が破られた話ではありませんでした。
1644年、明は内側から崩れます。李自成という反乱軍の指導者が北京を落とし、明は事実上滅びました。このとき、長城の東端・山海関を守っていたのが、明の将軍・呉三桂です。ブリタニカの呉三桂の項によれば、北京陥落後、彼は清(すでに満洲で建てられ、この国号を称していた勢力)に援軍を求めました。明・清の連合軍は李自成を北京から追い出し、そのまま清が中国の新たな支配者となります。呉三桂はその後、清から高い地位を得て、30年近く仕えました。
つまり、鉄壁とうたわれた明の長城を清の軍勢がくぐった決定的な場面は、敵が壁をよじ登ったのではなく、守るはずの将軍が門を開けたことで起きた、と言ってよいものでした。壁は、それを守る人間の意思より強くはなれません。
宇宙からは、見えない
最後に、あの有名な話にも触れておきます。万里の長城は宇宙から肉眼で見える唯一の人工物だ、というものです。これは正しくありません。ブリタニカの解説では、宇宙飛行士は月から肉眼で長城を見ることはできないと証言しており、低い軌道からでも、条件がそろったときにようやく見える程度だといいます。壁は細長く、周囲の地形と色もよく似ているので、上空から見分けるのはむしろ難しいのです。
長さについても、数字は一つではありません。現存・かつて存在したものを合わせた全長は、およそ21,196kmという調査結果があります。一方で、私たちが写真で見る明代の長城に限れば、約8,850km。しかもその4分の1ほどは、川や山といった自然の地形がそのまま防衛線を兼ねていた、とされます。
一枚の壁が北の敵をはね返し続けた、という物語は、たしかに分かりやすい。けれど実際の長城は、2000年のあいだに幾つもの王朝が別々の場所に継ぎ足した、途切れがちの壁の集まりでした。私たちが頭に描く「一枚の長城」は、その全部を後からひとまとめにした見取り図に近いものです。
参考・出典
- Encyclopædia Britannica「Great Wall of China」 https://www.britannica.com/topic/Great-Wall-of-China
- Encyclopædia Britannica「Wu Sangui」 https://www.britannica.com/biography/Wu-Sangui
- National Geographic「Did the Great Wall of China work?」 https://www.nationalgeographic.com/history/history-magazine/article/the-great-wall-of-china
- World History Encyclopedia「Great Wall of China」 https://www.worldhistory.org/Great_Wall_of_China/
- TravelChinaGuide「The Great Wall of China History – Over 2,700 Years」 https://www.travelchinaguide.com/china_great_wall/history/
- TravelChinaGuide「Ming Dynasty Great Wall」 https://www.travelchinaguide.com/china_great_wall/history/ming/
- 世界史の窓「万里の長城」 https://www.y-history.net/appendix/wh0203-078.html

