歴史

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なぜ地図は「北が上」なのか——方位の標準化と、そうでない地図の歴史

地図の北が上なのを私たちは当たり前と思っていますが、国土地理院でさえ「確たる定説はない」としています。中世ヨーロッパでは東が上、イスラム圏では南が上。方位が北へそろっていった歴史と、いまも残る「逆さ地図」をたどります。
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兵庫県はなぜ五つの国からできているのか——摂津・播磨・但馬・丹波・淡路と、神戸を分ける国境

神戸市は一つの市でありながら、須磨と垂水のあいだで摂津国と播磨国に分かれている。その境は古代の大化の改新までさかのぼり、いまも区境に残る。さらに兵庫県は摂津・播磨・但馬・丹波・淡路という五国の寄せ集め——歴史も風土も違う土地が一県になった理由は、神戸港にあった。
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西国街道とは何だったのか——山陽道の別名と、国道2号に重なる神戸・兵庫の道

神戸の街なかを貫く国道2号は、その多くが江戸時代の西国街道と重なっている。古代の山陽道を引き継いだこの脇街道は、名前すら一定しない不思議な道だった。兵庫津では繁栄ゆえに直角に折れ曲がる。神戸・兵庫を通った西国街道の来歴をたどる。
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明石の子午線はなぜ「日本標準時」の基準になったのか——標準時が先に決まり、明石は後から名乗った

「明石に子午線が通るから、東経135度が日本の標準時になった」と思われがちですが、順序は逆です。先に東経135度が標準時と決まり、その線上にたまたま明石があった。しかも線が通る町は12もある。それでも明石が「子午線のまち」になったのは、地理ではなく、1人の数学者と、自腹で標識を建てた教員たちのおかげでした。
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六甲山はなぜハイキングの山になったのか——神戸の外国人が開き、市民の日課になった山歩き

神戸の市街地のすぐ北にそびえる六甲山は、休日も平日の早朝もハイカーでにぎわう山です。なぜここまで「登る山」になったのか。港を開いた神戸にやってきた外国人が別荘やゴルフ場を開き、毎朝山に登る習慣まで持ち込み、それを市民が受け継いでいった歴史をたどります。
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阪神間モダニズムとは何だったのか——私鉄が郊外に育てた、洋館と洋装の生活文化

芦屋や夙川を歩くと、白壁に赤瓦の古い洋館がふいに現れます。なぜ大阪と神戸のあいだのこの一帯に、洋館が集まっているのか。大正から昭和の初めにかけて、阪神電鉄や阪急が郊外の丘に住宅地を開き、洋館に住み洋服を着る新しい暮らしが花開きました。「阪神間モダニズム」と呼ばれた文化圏が、どんな地理と鉄道と人の上に成り立っていたのかをたどります。
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神戸の外国人居留地はなぜあそこにできたのか——「兵庫開港」と呼ばれた、3.5キロ東の砂地

開国のとき外国に開かれたのは、当然「神戸」だった——そう思いがちですが、幕府が条約で約束した開港地は神戸ではなく「兵庫」でした。しかも実際の外国人居留地が築かれたのは、その兵庫の中心から東へ3.5キロ離れた砂地の神戸村。京都に近い港を嫌った朝廷、水深を測った英国公使、上海帰りの技師が引いた碁盤の目——「兵庫開港」と呼ばれながら神戸にできた居留地の理由をたどります。
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和暦と元号——吉凶で改め、最後は法律で残した

「令和」で日本はおよそ248番目(数え方では232とも)の元号を迎えました。もとは古代中国で皇帝が時間まで支配する装置として生まれ、日本では645年の「大化」に始まります。めでたい瑞兆でも、災害や疫病でも、干支の巡りでも改元してきた歴史、明治の一世一元、戦後にいったん法的根拠を失い1979年の元号法で残った経緯、そして「永」が29回も選ばれた2字の縁起までをたどります。
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「天皇」はいつ生まれたのか——「大王」から改めた7世紀と、定説を動かした木簡

「天皇」という称号は最初からあったわけではありません。7世紀まで、日本の王は「大王(オオキミ)」と呼ばれていました。いつ「天皇」へ変わったのかは長く論争で、推古朝説と天武朝説が対立してきました。流れを変えたのが飛鳥池遺跡から出た木簡です。遣隋使の国書、唐の高宗、道教の北極星、そして律令と明治の法制化まで、一つの称号が生まれ定着するまでをたどります。
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平清盛はなぜ神戸に港を作ったのか——都に近い港と、海に沈めた経文の石

平清盛は私財を投じて神戸の港・大輪田泊を整えました。船を悩ませた南東の風をふせぐため、海に石を沈めて人工島まで築いています。狙いは、宋の船を博多で止めず瀬戸内海の奥、都のすぐ近くまで引き込むこと。法皇に宋人を引き合わせて貴族を仰天させた賭けから、福原遷都の夢、清盛の死後に兵庫津・神戸港へと受け継がれた港の来歴までをたどります。