シルクロードとは何だったのか——「道」ではなくネットワークだった交易路

シルクロードとは何だったのか——「道」ではなくネットワークだった交易路 歴史

ラクダの隊商が、絹を山と積んで砂漠を行く。はるか中国の都を出て、オアシスをつたい、やがて地中海のローマへ。「シルクロード」と聞いて、多くの人がだいたい似たような絵を思い浮かべるのではないでしょうか。私もそうでした。

ところが、この言葉そのものを調べはじめると、最初の前提があやしくなります。「シルクロード」という呼び名は、古代の隊商が使っていたものでも、漢の役人が書き残したものでもありません。生まれたのは19世紀の終わり、しかも東洋ではなくドイツです。

名前が新しいこと自体は、めずらしくありません。問題なのは、この名前が実態をかなり都合よく整えてしまったことのほうです。一本の道がすっと通っていたかのような、整然とした像。実際にあったのは、もっとほどけて雑多なものでした。

名づけたのは地質学者だった

「シルクロード」を世に出したのは、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(1833〜1905)というドイツの地理学者・地質学者です。1877年から刊行が始まった大著『China』のなかで、中国と西方を結ぶ古代の交易路を、ドイツ語で「ザイデンシュトラーセ(Seidenstraße)」、複数形では「ザイデンシュトラーセン(Seidenstraßen)」と呼びました。絹の道、です。

地質学者がなぜ古代の交易路を、と思うところですが、背景を知ると腑に落ちます。学術データベースJSTORの解説記事「Inventing Silk Roads」によれば、リヒトホーフェンの中国調査は、ドイツが鉄道や港湾の利権を東アジアへ広げようとする動きと地続きでした。彼の地図づくりは、のちにドイツが膠州湾(青島)を租借する布石にもなっています。「絹の道」は純粋な歴史趣味から出たのではなく、ベルリンと中国を鉄道で結ぼうとする商業構想のただ中から生まれた言葉だったわけです。

この名前を世界へ広めたのは、リヒトホーフェンの弟子で、スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンでした。中央アジアを実際に歩き、ベストセラーになった紀行で「シルクロード」を一般の語彙に押し上げます。

歴史学者のタマラ・チンは、そもそも古代の人々が自分たちの交易網をひとまとめに呼ぶ言葉を持っていなかった、と指摘しています。シルクロードは古代の自称ではなく、近代がさかのぼって貼った名前でした。

一本の道ではない

では、その実態は。

単線の道路ではありませんでした。日本の世界史用語集サイト「世界史の窓」は、シルクロードを大きく三つの系統に分けています。天山山脈の南、オアシス都市をつないでいく「オアシスの道」。北方のユーラシアの草原地帯を東西に走る「草原の道」。そして海を経由する「海の道」。砂漠の隊商路だけがシルクロードなのではなく、ステップの遊牧路も、インド洋の海路も、その一部とされます。

陸路にしても、一本にまとまってはいません。オアシスからオアシスへ、いくつもの経路が分岐しては合流し、全体として網の目をかたちづくっていました。

このネットワーク性は、現代の評価にもはっきり残っています。2014年にユネスコが世界遺産へ登録した区間の正式名称は、「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網(Silk Roads: the Routes Network of Chang’an-Tianshan Corridor)」。routes、network という複数形と網の語が、公式名のなかに入っているのです。登録対象は中国・カザフスタン・キルギス3か国にまたがる約5,000kmの区間で、遺跡は33か所(中国22、カザフスタン8、キルギス3)。都城、隊商宿、仏教石窟、関所、烽火台などが並びます。紀元前2世紀ごろにかたちを取りはじめ、16世紀ごろまで使われ続けた、と説明されています。

だれも端から端まで歩いていない

道が網だったとして、その上をだれが、どう動いていたのか。ここで崩れるのが、「中国からローマまで隊商が往復した」という像です。

一人の商人がユーラシアを横断して荷を運びきる、というかたちは、実際にはまれでした。品物は区間ごとに人の手から手へ受け渡されていく。中継に中継を重ねる、リレーのような交易です。東の端で積まれた絹が西の端に届くころには、持ち主は何度も替わっている。

内陸の区間で、この中継を長く担ったのがソグド人でした。現在のウズベキスタン、サマルカンド周辺のソグディアナを原住地とする、イラン系の商業民です。「世界史の窓」のソグド商人の項によれば、彼らはラクダを駆使して遠隔地を渡り歩き、7〜8世紀ごろまでユーラシア内陸のシルクロード交易をほぼ独占していたとされます。突厥やウイグルといった遊牧国家の保護のもとで動き、唐の都・長安にもソグド人のまちがありました。

写真:Stomac「ウズベキスタン・サマルカンドのレギスタン広場」 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0 fr

運ばれたのは絹だけではありません。東から西へは絹が流れ、西から東へはイランの金銀器やガラス製品、そして馬。とくに絹と馬の交換は盛んで、「絹馬貿易」と呼ばれたほどでした。

運ばれたのは、絹よりも

近年の研究は、「絹を満載した大隊商が長距離を行き交った」という像そのものに、かなり厳しい目を向けています。

代表格が、歴史学者ヴァレリー・ハンセンの『The Silk Road: A New History』(オックスフォード大学出版局)です。出版社の紹介文にあるとおり、史料と発掘から見えてくる現実は、ラクダに絹を積んでローマをめざす——という定番のイメージとは「違っていて、そしてはるかに面白い」ものでした。砂漠の遺跡から出土する文書を読み解くと、浮かび上がるのは華やかな大商隊よりも、地域のなかの細かな取引や、自給に近い暮らしのほうだといいます。中国の絹が大量に流通へ乗った要因のひとつは、商人の商売ではなく、中国の軍や役所が西方へ支払った絹だった——そんな見直しも進んでいます。絹を動かしていたのは交易の利益というより、国家の財政だった面がある、ということです。

商業の規模が、ロマンチックな語り口ほど大きくなかったのだとして、ではこの網は何を運んだことで歴史に残ったのか。ハンセンが重く見るのは、モノよりも人と信仰の交わりのほうです。長安からサマルカンドまでの都市には、商人も使節も巡礼もまじりあう国際色ゆたかな社会があり、仏教からゾロアスター教まで、複数の宗教が併存していました。

実際、この道を通って東へ伝わったものを並べると、商品より思想や技術のほうがよほど目を引きます。インドに生まれた仏教が、中央アジアのオアシス都市を経て中国へ、さらに日本へ届いたのも、この経路でした。マニ教、ネストリウス派キリスト教、のちにはイスラーム。宗教は、人と一緒に網の上を移っていきます。紙の作り方のように、社会の土台ごと変えてしまう技術も、西へ流れました。

絹を運んだ道、という名前のいちばん大事な積荷が、じつは絹ではなかった。個人的にいちばん腑に落ちたのは、この一点でした。

いつから「道」はあったのか

起点にも触れておきます。

陸のシルクロードが歴史に姿を現すのは、漢の時代です。前漢の武帝が、匈奴を挟み撃ちにする同盟相手を探して、紀元前138年に張騫を西方へ送り出しました。目的は外交と軍事であって、交易ではありません。ところがこの遠征が中央アジアの諸国・諸文化との接触をもたらし、結果として東西を結ぶ交易路がひらけていきます。World History Encyclopedia は、おおよそ紀元前130年ごろをその開通の時期として挙げています。

通商のために敷かれた道ではなく、軍事上の必要からたまたま通じてしまった回廊だった、というわけです。

名前のこと

「シルクロード」は、よくできた名前だと思います。絹という具体物を一つ掲げ、ロードの一語で東西を結んでみせる。おかげで、複雑きわまる交易と交流の歴史が、誰の頭にも浮かぶ一枚の絵になりました。

便利な名前ほど、油断するとそのまま史実だと思わせます。地図に一本の線を引いて「これがシルクロードだ」と示されれば、私たちはつい、その線の上をラクダが行き来したと思い込む。けれど線の下には、名づけられるよりずっと前から動いていた、無数の経路と担い手がいました。

シルクロードを「道」と呼ぶのをやめる必要はないでしょう。ただ、その呼び名が19世紀ベルリンの鉄道構想から出てきたものだと知ると、地図の上に引かれた一本の線が、もう前のようには見えなくなります。

参考・出典

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