活版印刷はなぜ世界を変えたのか——グーテンベルクと情報革命の構造

歴史

活版印刷を発明したのはグーテンベルク。そう習った人は多いと思います。15世紀半ばのドイツで金属の活字を考え出し、それが本を安くし、知識を広め、やがてルネサンスや宗教改革を後押しした。教科書のひとコマとしては、よくできた話です。

ただ、この「発明」という言葉には、2か所ほど補助線が要ります。ひとつは、活字を組んで刷るという発想そのものが、グーテンベルクより数百年も早く東アジアで生まれていたこと。もうひとつは、「印刷が世界を変えた」と言うとき、いったい何が、どんな仕組みを通して変わったのか、という点です。

技術の中身から順に見ていきます。

グーテンベルクが組み上げたもの

彼の仕事を「金属活字の発明」と一言でまとめると、肝心なところがこぼれ落ちます。グーテンベルクが作ったのは活字そのものというより、活字を安く正確に量産し、それを組み、インクをのせ、紙へ均一に刷るところまでの一式——いわば一つのシステムでした。

ブリタニカの記述では、彼はすぐ溶けて冷えると硬くなる金属の合金で、繰り返し使える活字を作ったとされます。日本印刷産業連合会の解説によれば、その合金は鉛・錫・アンチモン。低い温度で溶けるので鋳造しやすく、同じ字を何本でも均質に作れました。プレスのほうは、ぶどうやオリーブ油の搾り機を転用した、ねじで上から押す方式。インクは、当時油絵具とともに広まりつつあった油性のものを使い、金属の活字によく乗るよう調合されています。

部品の一つひとつは、まったくの新発明というより、すでにあった技術の組み合わせでもありました。それらを噛み合わせて、はじめて「同じ本を、安く、何百部も」という回路が回り出す。

代表作が、42行聖書と呼ばれるあの聖書です。1ページが42行で組まれていることからそう呼ばれ、1455年ごろに刷られたと見られています。もっとも、この事業は順風満帆ではありませんでした。グーテンベルクは資金提供者フストから多額の借り入れをして印刷を進めますが、1455年に訴訟となり、約2,020グルデンの返済を命じられています。技術史の英雄譚の裏側で、当の本人は破産まがいに追い込まれていた。

調べていて面白かったのは、その「発明」の中身が、いまも完全には確定していないという点です。ブリタニカは、2000年代に入ってからのコンピュータ解析で、グーテンベルクの印刷物に同じ文字でも微妙なばらつきが見つかったことに触れています。1本の父型(パンチ)から母型を作り、そこから均一な活字を大量に鋳る——という、長く信じられてきた製法そのものが、見直されつつあります。

活字は東アジアが先だった

活字を使う印刷は、ヨーロッパの専売特許ではありません。世界史の窓によれば、北宋の11世紀半ば、畢昇(ひっしょう)という工人が膠泥活字——粘土を焼いて作った活字を考案しています。鉄板に蝋を流し、その上に活字を並べて固定し、紙をあてて刷る、という素朴な仕組みでした。

金属の活字となると、舞台は朝鮮半島へ移ります。高麗では13世紀には銅の活字が使われており、現存する世界最古の金属活字本とされるのが、1377年の『直指心体要節』です。清州の古印刷博物館が運営する資料サイト「直指グローバル」の説明では、清州の興徳寺で鋳字によって刷られたと巻末に記録が残り、その現物はいまフランス国立図書館にあります。グーテンベルクの聖書より、78年も早い。

個人的に意外だったのは、世界最古の金属活字本が、韓国でもドイツでもなく、パリの図書館に収まっているという事実でした。直指グローバルによれば、その存在が広く知られるようになったのは、フランス国立図書館の展示に出た1972年のことだといいます。

では、活字も金属活字も東アジアが先んじていたのに、なぜ「印刷が世界を変えた」物語の主役はグーテンベルクなのでしょうか。

アルファベットという相性

答えのかなりの部分は、技術そのものよりも、刷る言語の側にあります。

世界史の窓は、この差をはっきり指摘しています。漢字を使う文化圏では、活字を一字ずつ、しかも数千種類ぶん鋳造しなければなりません。本を1冊組むのに膨大な数の活字が要り、それを揃えること自体が大事業になる。対してヨーロッパで使うアルファベットは、文字数がごくわずかです。大文字・小文字や記号を足しても数十種類。同じ字を繰り返し使い回せるぶん、活字を組む手間も、揃える費用も、けた違いに軽くなります。

ここが、いわば「情報革命の構造」にあたる部分でしょう。グーテンベルクの仕事の核は、ゼロから何かを思いついたことより、アルファベットという「少ない部品で無限の文を作れる仕組み」に、量産できる活字のシステムを噛み合わせたことにあります。新しい発想というより、相性の良さ。

しかも、そのシステムは複製できました。マインツの工房で握られていた技術は当初こそ秘密でしたが、職人が各地へ散っていくと、印刷所が次々に立ち上がっていきます。1台の印刷機が1日に刷れる枚数は、英語版ウィキペディアの「印刷機」項目で1,500枚から3,600枚ほど。手で書き写せばせいぜい数十枚ですから、まるで桁が違います。

270の都市、2000万冊

普及の速さは、数字に出ます。印刷史でよく引かれる推計では、マインツのたった1軒の工房から始まった印刷は、15世紀末までに中欧・西欧・東欧のおよそ270都市へ広がりました。1500年より前に刷られた本——インキュナブラと呼ばれます——は、版を重ねた総数で2000万部を超えたとされます。当時のヨーロッパの人口を思えば、相当な密度です。

本の値段も下がりました。書き写すしかなかった時代、本は財産です。それが、しだいに手の届くものになっていく。読む人が増え、増えた読者がまた次の本を求める。

最初のメディア・イベント

この動きが、もっとも劇的にあらわれたのが宗教改革でした。

1517年、マルティン・ルターが95か条の論題を世に問います。本来は学者どうしのラテン語の議論で終わるはずのものが、印刷を通じて一気に広がった。ワールド・ヒストリー・エンサイクロペディアによれば、論題は1年とたたずにベストセラー級のパンフレットになっています。

数字を見ると、その勢いがわかります。キリスト教史の専門誌Christian History Instituteの記事は、1517年から1520年のあいだに、ルターの30点のパンフレットが合計370版を重ね、40万部がドイツに流れたと伝えています。ドイツ語圏の出版物は1517年からの数年で7倍近くにふくらみ、その半分ほどをルター一人が占めた。1521年から1525年には、ヨーロッパ全体の出版物のおよそ半分がドイツで刷られ、その8割がドイツ語だったという推計もあります。

ここで効いたのが、言語でした。ルターはラテン語の聖書をドイツ語に訳しました。それまで聖書は聖職者のラテン語に閉じていて、多くの人にとっては意味のわからない書物だった。俗語に開かれ、安く大量に刷られたことで、人々は教会という仲介者を飛び越えて、直接テキストに触れられるようになる。

これはおそらく、史上はじめての「メディア・イベント」でした。印刷はそれ自体は中立の道具のはずが、結果として既存の権威を揺さぶる側に回った。技術が広めたかったのは特定の思想ではありません。広まりやすさそのものが、世界を動かしたのです。

では、印刷が世界を変えたのか

ここまで読むと、印刷が社会を作り変えた、という話に聞こえます。半分は当たっていて、半分はおそらく言いすぎです。黒死病の回でも似た留保を置きましたが、歴史を一つの原因で説明できると、話はきれいになりすぎる。

経済史の研究を一つ。ジェレマイア・ディットマーは、印刷所が15世紀のうちに根づいたヨーロッパの都市が、16世紀に他の似た都市よりはっきり速く成長したことを示しました。面白いのは、印刷術が伝わる前の時代には、そうした都市に成長の優位がまったく見られなかった点です。技術が来てから差がついた。ディットマーは、印刷術がマインツから秘密のうちに同心円状に広がった性質を利用し、マインツからの距離を手がかりに因果を測ろうとしています。

ただし、この種の推計は手堅いとは限りません。同じ研究でも、別の起点を基準に取り直すと印刷の効果がうまく検出できなくなる、という限界も指摘されています。印刷が都市を富ませた、と言い切るには、まだ慎重さが要る。

印刷史の古典として知られるエリザベス・アイゼンステインは、印刷を「変化の主体(an agent of change)」と位置づけました。固定された活字が知識を安定して複製し、それが科学や宗教や政治を変えていった、という見立てです。説得力のある議論ですが、印刷だけで何もかも説明しようとすると、やはり単線になりすぎる。文字を読める人が増えていたこと、紙が普及していたこと、都市が育っていたこと——いくつもの条件が揃っていたところへ、印刷が触媒として入った。

グーテンベルク本人は、自分の組んだ活字が王の法より速く広まり、聖書をラテン語の独占から引きはがすとは、たぶん想像していなかったはずです。技術が何を変えるかは、たいてい、作った当人の意図をだいぶ越えたところで決まります。

参考・出典

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