居留地はなぜあそこにできたのか——神戸村という選択の背景

歴史

神戸の旧居留地といえば、三宮と元町の間に広がる整然とした街区がまず浮かぶ。格子状の道路、重厚な煉瓦造りのビル、そして電柱のない空。今もその街割りは開港当時のまま残り、一帯の景観を決定づけている。

しかし、少し立ち止まって考えると、ひとつの疑問が生まれる。そもそも「兵庫開港」と呼ばれるこの出来事で、開港場になったのはなぜ「兵庫」ではなく、東に3.5キロも離れた小さな神戸村だったのか。

条約が指定した「兵庫」はどこを指していたか

1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、まもなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同内容の条約(安政五カ国条約)を結んだ。条約には「兵庫」を開港場とし、外国人居留地を設けると明記されていた。兵庫津は当時、大坂の外港として機能していた大きな港町であり、往来の絶えない賑やかな町だった。

ところが、実際の開港は条約の規定より大幅に遅れることになる。条約締結時点でも勅許が得られず、朝廷は御所のある京都に近い兵庫への外国人流入を強く嫌った。紆余曲折の末、開港はロンドン覚書(1862年)によって5年延期され、慶応3年(1867年)にようやく勅許が下りた。

開港そのものに時間がかかったこの経緯が、居留地の設置場所にも影響を与えていく。

兵庫津ではなく、神戸村へ

1867年(慶応3年)5月、幕府はイギリス・アメリカ・フランスとの間に「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を締結した。その第1条に盛り込まれた文言は、「兵庫に居留地を神戸町(神戸村)と生田川との間に取極め」というものだった。

条約で「兵庫」と定められていたにもかかわらず、実際の場所は兵庫津からずっと東に離れた小さな集落、神戸村に設けられることが確定したのである。この選択がなぜなされたかを直接示す資料は、現在のところ存在しない。ただ、研究者たちはいくつかの理由を推測している。

まず「人の少ないところ」という論点がある。兵庫津はすでに人口の多い市街地が形成されており、外国人居留地のための用地確保が難しかった。一方の神戸村は砂地と畑地が広がる小さな集落で、土地の取得が格段に容易だった。また、1865年(元治2年)に閉鎖されたばかりの神戸海軍操練所の施設を活用できるという実務上の利点もあったとされる。

もうひとつ、より政治的な理由も指摘されている。兵庫津はすでに往来の激しい港で、外国人を嫌う住民が密集していた。幕府は衝突や騒乱のリスクを避けるため、人口の少ない場所を意図的に選んだという見方だ。『新修神戸市史』はこの点について、外国人と日本人の接触を極力回避しようとした幕府の配慮がうかがえると評している。

地形が「隔離」を可能にした

神戸村のなかで居留地が設けられた具体的な区域は、東を(旧)生田川、西を鯉川、南を海に囲まれた土地だった。三方を川と海で遮られ、北には西国街道が走るこの場所は、地形的にも外界と隔絶しやすい構造を持っていた。

外から人が入りにくく、内にいる人が出にくい。幕府が居留地の設計に込めた「隔離」の意図は、場所の選定の時点からすでに始まっていたといえる。

加えて、外国側もこの場所を自然に評価していた。1865年(慶応元年)、イギリス公使ハリー・パークスの随行員が兵庫津付近の海域を測量した際、旧市街からやや離れたところにある予定地について「十分な水深があり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と記録を残している。この「やや離れたところ」が神戸村を指していたと考えられており、外国側も早くから兵庫津より神戸村のほうが開港に適していると認識していたと推測されている。

双方の思惑が、奇妙な一致を見せていたのである。

整った街として産声を上げる

1867年12月(慶応3年)、神戸村での工事が始まった。しかし幕末の政情は混乱を極めており、開港日の1868年1月1日(慶応3年12月7日)には税関と埠頭、倉庫が完成したにとどまった。翌月には大政奉還、鳥羽・伏見の戦いと続き、工事を指揮していた幕府の兵庫奉行・柴田剛中も江戸へ引き揚げてしまう。残りの造成は、明治政府のもとで進められることになった。

居留地の設計を担ったのはイギリス人土木技師J.W.ハートである。彼のプランに基づき、格子状の街路、街路樹、公園、街灯、下水道を備えた整然とした西欧的都市空間が造成された。敷地は126区画に分割され、その後4回に分けて競売にかけられた。

開港からわずか3年後の1871年(明治4年)、英字新聞『The Far East』はこの居留地について「大阪の港は兵庫で、兵庫の外国人居留地は神戸である」と書いたうえで、「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と賞賛した。横浜では日本人の工匠による擬洋風建築が混在していたのに対し、神戸でははじめから外国人建築家の手によって洋風建築群が生み出されたことも、そうした評価の背景にあった。

「兵庫開港」と呼ばれた場所

整理しておきたいのは、ここで誕生した港が、しばらくのあいだ「神戸港」という名称すら持っていなかったという事実だ。1892年(明治25年)に勅令によって神戸港と命名されるまで、条約上の「兵庫開港」の場所として機能しながら、正式名称を持たない港だった。

条約で「兵庫」と書かれた場所が、交渉を経て「神戸村」になり、やがて「神戸港」と呼ばれるようになる。名称と実態のずれは、この地が政治的妥協と地理的思惑の産物として生まれた経緯を反映している。

  • 慶応3年(1867年)5月:兵庫大阪規定書で神戸村への居留地設置が確定
  • 慶応3年12月(1868年1月1日):兵庫開港、居留地の一部造成が完了
  • 明治元年(1868年)9月:居留地の最初の区画競売が実施
  • 明治5年(1872年):J.W.ハートが居留地計画図を完成
  • 明治32年(1899年):条約改正に伴い居留地が日本に返還
  • 明治25年(1892年):港に「神戸港」の名称が勅令により与えられる

「あの場所」が神戸を作った

居留地の存在は、街の空間をつくっただけではなかった。開港当初から居留地の工事が遅れていたため、明治政府は雑居地と呼ばれる区域を設け、日本人と外国人が混住することを暫定的に許可した。この雑居地こそが、後に「異人館」として残るエリアである。

治外法権の壁で隔てられた居留地と、生活レベルで混ざり合った雑居地。この二層構造が、神戸という都市の開かれた文化的土壌を形成した。現在の旧居留地一帯が、開港当時の街割りをほぼそのまま保ちながら今日まで続いていることは、あの場所選定の判断の結果でもある。

砂地と畑ばかりの小村が選ばれた理由は、隔離のための地形であり、土地確保の容易さであり、騒乱回避の政治的判断だった。そしてそこに、外国側の測量が見出した「天然の優れた投錨地」が重なった。偶然と計算が折り重なった場所選定が、現在の神戸の核心部を生んでいる。

参考・出典

  • 神戸旧居留地オフィシャルサイト「旧居留地の歴史」 https://www.kobe-kyoryuchi.com/history/
  • 鈴木商店記念館「⑥外国人居留地」 https://www.suzukishoten-museum.com/footstep/area/kobe_center/post-120.php
  • 神戸市立博物館「PLAN OF THE FOREIGN SETTLEMENT OF KOBE(神戸外国人居留地計画図)」 https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365270
  • Wikipedia「神戸外国人居留地」 https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸外国人居留地
  • Wikipedia「ハリー・パークス」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ハリー・パークス
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