「令和」と聞いて、私たちはそれが「いま」を指す言葉だと、ごく自然に受け取ります。けれど元号は、ただの年の数え方ではありません。一つの思想を背負った、ずいぶん古い制度です。
「令和」で日本はおよそ248番目の元号を迎えました。資料によっては232番目とも数えます。どちらにせよ、1,300年以上ものあいだ、この国は2字の漢字で時間を区切り続けてきました。なぜそんなことを始め、なぜ今も続けているのか。たどっていくと、縁起をかつぎ、災いに怯え、最後は法律で守った、人と時間のつきあい方が見えてきます。
時間を支配するという発想
元号は、中国で生まれました。英語版ウィキペディアの “Chinese era name” の項などによれば、前漢の武帝が立てた「建元」が世界最初の元号で、その元年は紀元前140年にあたります。やがてこの仕組みは東アジアに広まり、朝鮮やベトナムでも使われました。中国本国では、1912年の中華民国成立まで続きます。
おもしろいのは、この「建元」が、当時リアルタイムで使われていたわけではないらしいこと。同志社女子大学の吉海直人氏のコラムなどによれば、後年になって過去の年代にさかのぼって名づけられたと見られています。根っこにあるのは、皇帝は土地や人だけでなく時間まで支配する、という発想でした。年に名前をつけて改めることは、天下が自分のものだと示す政治的なふるまいだったのです。
大化から、大宝へ
日本で最初の元号は、645年の「大化」。大化の改新の、あの大化です。
ただ、当時どれほど使われたのかはあやしく、その後は元号のない時期も挟みます。制度として根を下ろすのは701年の「大宝」から。大宝律令で公文書に元号を使うことが定められ、ここから途切れない使用が始まりました。実質的なスタートは、大化より大宝に置くほうが正確でしょう。
めでたくても、災っても改める
明治より前の改元は、今とはまるで違いました。天皇の代替わりだけでなく、じつにいろいろな理由で年号を改めたのです。
コトバンクの改元の項目をもとに整理すると、理由はおおむね4種類。代替わりで改める代始改元は、今に続く形です。めでたいしるしが現れて改める祥瑞改元には、白い雉の「白雉」、めでたい雲の「慶雲」、銅が出た「和銅」あたりがあります。ここまではわかりやすい。
問題は、残りの二つです。災異改元は、地震や火災、疫病、飢饉に見舞われたとき、年号を改めて流れを断ち切ろうとするもの。そして革命改元は、中国渡来の予言説にもとづきます。干支が一巡してめぐる辛酉や甲子の年は変事が起きやすいとされ、それを避けるために前もって改元しました。901年の「延喜」、964年の「康保」がその初例です。めでたいことでも、悪いことでも、ただの暦の巡り合わせでも、人々は年号を改めました。
「永」が29回
これだけ多くの元号を作れば、使う漢字も尽きそうなものです。ところが、実際は真逆でした。同じ字が、何度もくり返し選ばれてきたのです。
nippon.comがまとめたデータが、これをよく示しています。247の元号に使われた漢字は、のべ504字。なのに、字の種類はたったの72字しかありません。突出して多いのが「永」で、29回。続いて「天」と「元」が各27回、「治」が21回、「応」が20回。この上位5字のどれかを含む元号が、全体の46%にあたる115にものぼるそうです。
なぜ偏るのか。長く続くことを願う「永」、神聖さを表す「天」、始まりを示す「元」。どれも、これから始まる時代に託したい意味をたっぷり持っています。新元号を選ぶ人々が、別々の時代に、別々の事情で、それでも結局は似た願いにたどり着く。気の遠くなるほどの数の改元が、たった72字に収れんしていきました。
明治の、一世一元
幕末まで、改元はずいぶん気軽に行われていました。それを変えたのが1868年の明治改元で、天皇一代に元号は一つ、という「一世一元の制」が採られます。以後、改元は代替わりのときだけ。明治、大正、昭和、平成、令和——元号と時代がぴたりと重なる私たちの感覚は、じつはこのとき作られた、案外新しいものです。明治以降でいちばん長く続いたのは昭和で、64年。
いちど、消えかけた
ここで意外な事実があります。元号は戦後に一度、法律上の根拠を失っています。
1947年、日本国憲法の施行にあわせて皇室典範が作り直された際、元号を定める条文が、すっぽり抜け落ちてしまいました。慣習としては使われ続けたものの、法的な裏づけのない、宙ぶらりんの状態です。それどころか、廃止論まであった。1950年には日本学術会議が、元号をやめて西暦に統一しようと政府に申し入れています。世界に通じる西暦のほうが合理的だ——もっともな言い分でした。
宙づりのまま、元号は30年あまりを過ごします。空気が変わったのは、昭和の終わりが近づいてきたころ。次の改元に法的根拠がないままでは困る、という差し迫った事情から、1979年に元号法が作られました。たった2項の、ごく短い法律です。元号は政令で定める、改めるのは皇位の継承があったときに限る——それだけ。これが平成や令和への改元を支える土台になりました。気軽に改めていた古い制度が、最後は近代の法律によって、かろうじて生き延びた格好です。
令和——初めて国書から
令和には、もう一つ画期がありました。出典です。
これまでの元号の多くは、中国の古典から字を採ってきました。ところが令和は、日本最古の歌集『万葉集』が出どころ。日本の書物を典拠とした、初めての元号です。もとになったのは、730年の正月に大伴旅人が大宰府の邸宅で開いた「梅花の宴」の序文、「初春の令月にして、気淑く風和らぎ」のくだり。この宴では、参加者が梅をめぐる和歌を32首詠みました。1,300年近く前の、梅をめでる宴の言葉が、新しい時代の名前に選ばれたわけです。
2字で時代を呼ぶということ
いま、元号を使い続けているのは日本だけです。本家の中国も、清の滅亡とともに手放しました。
正直、不便な仕組みではあります。西暦なら何年前かすぐ計算できるのに、元号は頭の中で換算がいる。それでも私たちは、2字の漢字で時代を呼ぶのをやめません。「昭和の人」「平成生まれ」という言い方には、西暦の数字には出せない手ざわりがあります。縁起をかつぎ、災いに怯え、ときに法律にすがってまで、この国が手放さなかったもの。それは結局、時間に名前と表情を与えたいという、素朴な欲なのかもしれません。
参考・出典
- 同志社女子大学 吉海直人「元号について」 https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/11116
- コトバンク「改元」 https://kotobank.jp/word/改元-457152
- 関塾タイムス「元号のあゆみ 『大化』から新時代へ」(久禮旦雄准教授監修) https://www.kanjukutimes.com/media/kiji.php?n=75
- nippon.com「元号の最頻出漢字は『永』29回」 https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00379/
- Wikipedia “Chinese era name” https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_era_name
- Wikipedia(補助)「元号法」 https://ja.wikipedia.org/wiki/元号法


