平清盛はなぜ神戸に港を作ったのか——都に近い港と、海に沈めた経文の石

平清盛はなぜ神戸に港を作ったのか——都に近い港と、海に沈めた経文の石 歴史

神戸港は、いまでこそ日本を代表する貿易港の一つです。けれど、その原型をたどっていくと、850年ほど前に一人の人物が私財をつぎ込んで整えた、ずっと小さな港に行き着きます。平清盛です。

不思議なのは、彼がなぜそこまでして港にこだわったのか、という点です。武士として初めて太政大臣にまでのぼった人物が、国の事業としてではなく自分の財布から金を出し、海を埋め、石を沈めてまで一つの港を造ろうとしました。しかもその場所は、当時の都・京からそれほど遠くない、摂津国の海辺です。清盛が見ていたのは、たんなる港ではありません。海の向こう、宋から来る船でした。

父が開いた道

清盛が突然この発想にたどり着いたわけではありません。下地は父・忠盛が作っています。

忠盛は、九州・博多を舞台に宋との私貿易を進めた人物でした。当時の貿易は朝廷が大宰府で管理する建前でしたが、忠盛は瀬戸内海の航路や荘園を足がかりに、舶来の品を手に入れて朝廷へ献上し、それを権力の基盤に変えていきます。清盛はその路線を受け継ぎ、安芸守や播磨守として瀬戸内海沿岸に拠点を広げました。刀剣ワールドの日宋貿易の解説では、清盛がやったのは父の貿易を「さらに発展」させることだったとされます。父が博多で開いた窓を、清盛はもっと大きく、もっと都の近くまで開こうとしました。

なぜ大輪田泊なのか

清盛がその窓を開く先に選んだのが、大輪田泊でした。いまの神戸市兵庫区の南部、のちに兵庫津と呼ばれる一帯にあった港です。

決め手は、まず都との近さでした。摂津国の大輪田泊は、瀬戸内海を東へ進んだいちばん奥、畿内の入口にあたります。宋の船を博多で止めず、ここまで引き込めれば、輸入した品を都の消費地へそのまま流せる。海の玄関を、都の手元まで引き寄せるということです。

しかも、ゼロから造る港ではありませんでした。大輪田泊は奈良時代に僧・行基が築いたと伝わる「摂播五泊」——東から河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊、室生泊と並ぶ五つの停泊地——の一つで、914年に三善清行が記した『意見封事』にも名が見えます。古くから国家が管理してきた、由緒ある港でした。そこへ清盛自身の事情も重なります。彼は1168年に出家したあと、港の北にあたる福原(いまの兵庫区平野のあたり)に別荘を構えました。港まではおよそ2.5キロメートル。都に近く、すでに港があり、自分の足元にある——三つの条件が、この海辺で一つに結ばれていました。

南東から吹く風

ただ、この港には昔から弱点がありました。風です。

大輪田泊は、西からの風は和田岬がさえぎってくれます。ところが南東の方角が開けていて、そちらから風波が押し寄せると、停泊中の船が危うくなる。これは清盛の時代に始まった悩みではありません。神戸市立図書館の解説によると、朝廷は弘仁3年(812年)以来、たびたびこの港の改修を行ってきました。『日本後紀』に記録が残り、造大輪田船瀬使という役職が置かれ、「石椋」と呼ばれる石の堤も築かれています。律令国家が衰えるとその修築は途絶えがちになり、港は再び風にさらされていきました。清盛が手をつけたのは、何百年も繰り返されてきた、この南東の風との戦いの続きです。承安3年(1173年)、彼は私財を投じて大規模な改修に乗り出します。

海に石を沈める

清盛の答えは、港の前に島そのものを造ってしまう、というものでした。防波堤がわりの人工島を海に築き、南東からの波を受け止めさせる。これが経ヶ島です。

ただ、海を埋めて島を起こす工事は、当時の技術では並大抵ではありません。推定でおよそ37ヘクタールという人工島を、潮の流れる海の上に築こうというのです。難工事の歴史は古く、清盛は1162年にも一度この埋め立てに手をつけていますが、そのときは築いたそばから大風に流されています。承安年間に入ってからの大規模な工事を経て、経ヶ島がひとまず姿を現すのは1174年ごろとされます。

島の名は、その難工事から生まれました。工事を成し遂げるために、一切経——仏教の経典のすべて——を書き写した石を海に沈め、それを基礎にした。だから「経ヶ島」と呼ばれた、というのです。『平家物語』の巻六には、人柱の代わりにこの経石を沈めたとあり、地元には17歳の松王丸という少年が人柱になったという伝説も残ります。彼の菩提を弔うため二条天皇の勅命で建てられたと伝わるのが、築島寺(経島山来迎寺)です。

このあたりは、史実と伝説の境目が溶けています。兵庫県立歴史博物館の解説も、人柱の話を紹介したうえで「伝説が事実なのかどうかは知るすべもない」と書き添えていました。少年の人柱という物語が生まれるほど、海を埋める工事は人の手に余り、無茶なものだったのでしょう。

法皇に宋人を会わせる

港を整えるのと並んで、清盛はもう一つ、大胆な手を打ちます。

1170年(嘉応2年)9月、清盛は後白河法皇を福原の別荘に招き、そこで法皇を宋人に引き合わせました。当時、天皇や上皇が外国人と直接会うのは、宇多天皇の戒め以来のタブーとされています。その一線を、清盛は越えさせました。このときの貴族の動揺が、九条兼実の日記『玉葉』に生々しく残っています。兼実は、宋人が畿内まで入り込んで法皇に会うなど延喜のころから前例がないと驚き、「天魔の所為か」——悪魔の仕業ではないか——とまで書きつけました。港の整備と並行して清盛が当時の常識をどれだけ揺さぶっていたかが、この一行ににじんでいます。

外交は実際に動き出します。1172年(承安2年)には明州(いまの寧波)の地方官から国書と贈り物が届き、清盛は答礼の使いを送りました。やがて宋の商船が瀬戸内海を行き来することが認められ、正式な国交へとつながっていきます。運ばれてきたのは陶磁器、絹織物、香料、薬品、書籍、そして大量の宋銭でした。日本からは金・銀・硫黄・水銀・刀剣・漆器などが渡っています。なかでも宋銭は、のちの日本の貨幣経済を大きく動かしました。船底の重しとして敷き詰められて入ってきた銭が、やがて国の経済の血液になっていきます。

福原という夢

港と貿易の先に、清盛はさらに大きな構想を描いていたようです。

1180年(治承4年)、清盛は安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を伴い、京から福原へ都を移します。福原遷都です。大輪田泊という国際貿易港を抱えた新しい都を造ろうとしました。福原に隣り合う和田の地には「和田京」を計画したとされますが、平地が少なく手狭で行き詰まり、伊丹や加古川への新京案も立ち消えになっています。なぜ都ごと動かそうとしたのか、答えははっきりしません。宋との貿易を国の中心に据える海洋国家の構想だったとする見方、興福寺など寺社勢力の圧力から距離を置きたかったとする見方、六甲山を背にした地形が守りに向いていたとする見方——研究者のあいだでも説が分かれます。

福原の都は長続きしませんでした。源頼朝や源義仲の挙兵で情勢が一変し、わずか半年ほどで京へ戻ります。翌1181年、清盛は熱病であっけなく世を去りました。海の向こうへ開かれた都という構想も、そこで途切れます。

清盛が遺した港

構想は潰えても、港は残りました。

清盛の死後、大輪田泊の修築は東大寺再建で知られる僧・重源へ引き継がれます。兵庫津日本遺産の会の年表によれば、重源が大輪田泊や魚住泊を修築したのは建久7年(1196年)のこと。港はやがて「兵庫津」と呼ばれて栄え、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点となり、江戸時代には西廻り航路の北前船でにぎわいました。幕末の1858年には日米修好通商条約で開港場に指定され、その役目はほどなく、すぐ東に新しく開かれた神戸港へと移っていきます。

そして経ヶ島から始まった「海を埋めて港を造る」という発想は、いまも生きています。神戸の沖に広がるポートアイランドや六甲アイランドは、形こそ違え、清盛がやろうとしたことの延長線上にあります。神戸港の周辺を歩けば、清盛塚や和田神社といった彼ゆかりの場所が、今も街のあちこちに残っています。私財をなげうって海に石を沈めた一人の構想が、800年をこえて土地の形に刻まれている。神戸という港町は、その出発点に平清盛を置いています。

参考・出典

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