平清盛はなぜ神戸に港を作ったのか——大輪田泊・経ヶ島と、日宋貿易の野望

歴史

神戸港の西側、現在の兵庫区のあたりに、かつて「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれる港があった。奈良時代に行基が整備したとされるこの港は、瀬戸内海を往来する船の停泊地として古くから機能してきた。そこに12世紀後半、平清盛が私財を投じて大規模な改修を行い、日本最初の人工島とも呼ばれる「経ヶ島」を築いた。なぜ清盛は、この地に目をつけたのか。そしてなぜ、朝廷の事業でもなく、自らの財力でこの工事を行ったのか。

貿易は父・忠盛から引き継いだ

日宋貿易を語るとき、清盛の名が前面に出るが、その基盤を築いたのは父・平忠盛である。忠盛は鳥羽上皇の信任を背景に、大宰府の管轄を越える形で博多での私貿易を進め、舶来品を院に進呈することで平氏の権力基盤を固めた。宋との交易がいかに大きな富をもたらすかを、清盛は幼い頃から身で知っていた。

清盛はこの遺産を受け継ぎ、さらに大きく展開させた。安芸守・播磨守を歴任することで瀬戸内海沿岸に拠点を形成し、大宰府の対外交渉権を実質的に平氏の管轄下に収め、貿易の主導権を掌握していく。父の時代に九州までしか来なかった宋船を、瀬戸内海の奥深くまで引き込もうとしたのが清盛の構想だった。

なぜ「大輪田泊」だったのか

清盛が選んだのは、博多ではなく摂津国の大輪田泊だった。その理由はいくつかの条件が重なる。

第一は立地である。大輪田泊は京都に近く、畿内の消費地に輸入品を届けやすい。博多から宋船を呼び込む従来の方式では、瀬戸内海を経由してさらに物資を運ぶ手間がかかる。宋船を直接、都の外港まで入れることができれば、効率も利益も格段に上がる。

第二は清盛自身の拠点との関係である。清盛は1168年に出家して「浄海」と名乗ったのち、摂津福原(現在の神戸市兵庫区平野あたり)に別荘を構えた。この地と大輪田泊の距離はおよそ2.5キロ。港を見渡せる高台に居を定めながら、貿易推進の陣頭指揮を執ろうとしたのだろうと、神戸大学名誉教授の高橋昌明氏は指摘する。

第三は既存の港湾インフラである。大輪田泊は奈良時代以来、国家が管理してきた「摂播五泊」の一つで、瀬戸内海を航行する船の重要な停泊地として機能していた。ゼロから港を作るのではなく、実績のある港を改修するほうが現実的だった。

南東風という弱点——経ヶ島の誕生

大輪田泊には弱点があった。西方向には和田岬が防波堤となって西風の波から船を守るが、南東方向は海に開けており、南東風の際に船がしばしば難破した。朝廷はすでに弘仁3年(812)から修築を繰り返してきたが、律令国家の衰退とともに維持管理は放置されるようになっていた。

清盛は1162年ごろに福原一帯を管轄下に収め、大輪田泊の戦略的な価値を深く認識した。最初の工事は1162年2月に私費で着工されたが、同年8月の大風で水泡に帰し、翌1163年3月に再着工となった。難工事であったため、さまざまな伝説も生まれた。『平家物語』巻六には、人柱を入れることを罪深いと判断した清盛が、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたと記されており、それゆえこの人工島は「経の島(経ヶ島)」と呼ばれるようになったという。1173年ごろに改めて大規模な工事が行われ、1174年ごろに推定面積37ヘクタールの人工島が竣工した。泊の前面に防波堤となる島を築き、宋の大型船が安全に停泊できる環境を整えたのである。

1170年、大輪田泊に宋船が入港する

工事と並行して、清盛は宋との外交的な接触も進めた。1170年(嘉応2年)、大輪田泊にはじめて宋の船が停泊した。清盛は後白河法皇を福原の別荘に招き、宋人との面会を実現させている。当時、外国人が天皇・法皇と直接会うことは慣例上認められていない行為であり、公卿・九条兼実は日記『玉葉』に「我が朝延喜以来未曽有の事」と批判的に記している。清盛が慣例を超えて貿易拡大を推進しようとしていた姿勢がうかがえる。

1172年(承安2年)には、中国・明州(現在の寧波)の地方官から後白河法皇と清盛のもとに国書と贈り物が届き、翌年には清盛が答礼使を派遣。後白河院が宋の商船に瀬戸内海を航行する許可を与え、宋とのあいだに正式な国交が開かれた。それまで博多止まりだった宋船が、瀬戸内海を通って大輪田泊まで直接入港できるようになったのである。

輸入品の中心は宋銭・陶磁器・絹織物・香料・薬品・書籍など、輸出品は金・銀・硫黄・水銀・刀剣・漆器などだった。宋銭の大量輸入は日本に貨幣経済の発展をもたらし、その影響は清盛の時代をはるかに超えて続くことになる。

福原遷都という夢——海洋国家の構想

清盛の構想は港の改修にとどまらなかった。1180年(治承4年)、清盛は安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を伴って福原への遷都を強行した。新都の候補地として「和田京」の造営が検討され、大輪田泊を取り込む形で国際貿易港を中核とする都市計画が描かれた。清盛はさらに、私費による改修から国家事業への転換を図り、大輪田泊の永久的な修築を計画していた。

この遷都の動機については諸説がある。以仁王の乱を契機とする寺社勢力からの圧力を避けるためとも、宋との貿易拡大によって海洋国家・西国国家の樹立を目指していたためとも指摘される。「平氏系王朝にふさわしい新都建設」という観点から理解すべきとの見解も出されている(神戸大学名誉教授・高橋昌明氏)。

しかし内乱の広がりは予想を超えた。源頼朝・源義仲の挙兵が相次ぎ、大輪田泊の永久的修築計画も和田京造営計画も中絶を余儀なくされた。約半年後の1180年11月、清盛は福原から京都への還都を見届け、翌1181年に熱病で世を去った。

清盛の夢が引き継がれたもの

清盛の死後、大輪田泊の修築は東大寺の僧・重源によって引き継がれ、中世には「兵庫津」として国内第一の港と呼ばれるまでに発展した。室町時代には足利義満による日明貿易の拠点となり、江戸時代には北前船の発着港として栄えた。そして明治時代、兵庫津は新しく開港した「神戸港」に役目を譲ることになる。

12世紀の平清盛が私財を投じて夢見た「経の島」は、現代の神戸港のポートアイランドや六甲アイランドとして形を変えて引き継がれたとも言われる。一人の武将の経済センスと国際的な視野が、港湾都市・神戸の礎を築いたという意味で、清盛の選択は800年以上を経た今も神戸の地形の中に生き続けている。

参考・出典

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