江戸の都市インフラはなぜ高度だったのか——水と循環と火消の町

江戸の都市インフラはなぜ高度だったのか——水と循環と火消の町 歴史

18世紀のはじめ、江戸には100万人ほどの人が暮らしていたと見られています。オーストラリアの研究者バレットとアマティがThe Conversationに寄せた解説によれば、1721年ごろの江戸はおよそ100万人を抱える当時世界最大級の都市で、同じころのロンドンが60万人あまりだったことを思うと、その規模の大きさがわかります。

これだけの人間が一か所に集まれば、水をどう配るか、汚物をどう始末するか、火事をどう防ぐかが、そのまま都市の生き死ににかかわってきます。江戸がそこそこ機能していたということは、裏にそれを支える仕組みがあったということです。ここでは、水・循環・火消という三つのインフラから、その仕組みをのぞいてみます。

水の乏しい土地に、水を通す

江戸という土地は、大きな川の水を市中に引き込みやすい地形ではありませんでした。海に近い低地が多く、井戸を掘っても塩気のある水しか出ない場所がある。人が増えるほど、飲み水の確保は深刻な問題になります。

そこで整えられたのが上水道です。早い時期にできたのが神田上水で、東京都立図書館の資料によれば、水源は武蔵野の井の頭池(善福寺池や妙正寺池の水も合わせています)。関口の大洗堰で水を分け、神田川の上に掛樋という水路の橋を渡して、江戸城や町へ水を送りました。

より大きな事業が、玉川上水です。東京都水道局の解説をたどると、承応2年(1653年)に着工してその年のうちに掘り上げ、翌1654年に江戸市中へ通水しています。工事を担った庄右衛門・清右衛門の兄弟は、その功で玉川の姓を賜りました。見どころは、その勾配です。羽村の取水口から四谷大木戸まで、距離はおよそ43キロメートル。それに対して、全体の標高差はわずか92メートルしかありません。武蔵野台地のごくゆるやかな傾きを読み、水がひとりでに流れ下るように水路を掘った。市中に入ってからは石樋や木樋と呼ばれる管を地下に埋め、四谷や麹町、赤坂、芝のほうまで配りました。水を汲み上げるポンプも動力もない時代の話です。

都市が資源を捨てなかった

水と並んで江戸のインフラを語るときによく持ち出されるのが、徹底したリサイクルです。三つのインフラのうち、いちばん感心させられたのがここでした。

象徴的なのが、し尿の扱いです。環境省の白書によれば、江戸では人の排せつ物が「下肥」として近郊の農家に引き取られていました。ただでもらうのではありません。農家が金や野菜を払って汲み取る、いわば有価の資源だった。農家はそれを肥料にして野菜を育て、その野菜がまた江戸の町へ運ばれて食べられる。練馬大根や小松菜といった江戸の野菜は、この循環の産物です。都市が出した汚物が、めぐりめぐって都市の食卓に戻ってくる。

同じことは灰にも及びます。かまどから出る灰は灰買いが集め、肥料や製紙、染物に回されました。古着や古紙は繰り返し売り買いされ、割れた茶碗を焼き接ぐ焼継屋、鍋の穴をふさぐ鋳掛屋、桶のたがを直す箍屋といった修理の職人が、町のあちこちにいた。物を最後まで使い切り、壊れたら直す商売が成り立っていたのです。同じころのヨーロッパの都市が、汚物の処理に手を焼き、街路に投げ捨てられた排せつ物に悩まされていたことと比べると、この違いは際立ちます。The Conversationの解説も、江戸をほとんど廃棄物の出ない都市として紹介しています。

もっとも、これを「江戸は理想の循環型社会だった」とまとめてしまうのは、少し行き過ぎでしょう。下肥を使う農業は、寄生虫症のような衛生上の問題とも隣り合わせでした。循環がよく回っていたのは事実ですが、それは資源が乏しく、捨てる余裕がなかったことの裏返しでもあります。

火事と喧嘩は江戸の華

江戸のインフラを語るうえで、避けて通れないのが火事です。木と紙でできた家が密集し、冬には乾いた風が吹く。火はいったん出れば、たやすく燃え広がりました。

その恐ろしさを決定づけたのが、明暦3年(1657年)の明暦の大火です。内閣府の防災に関する報告書は、この一度の火災で亡くなった人をおよそ6万8000人と推計しています。一方、当時の記録には10万7000人あまりという数字も残っていて、被害の全容ははっきりしません。数字に幅があること自体が、この災害の規模を物語っています。江戸の大半が焼け、江戸城の本丸までが灰になりました。

この大火は、都市のつくりそのものを変えました。内閣府の報告によれば、幕府は焼け跡の再建にあたって道路を広げ、広小路や火除地といった延焼を食い止める空き地を設け、燃えにくい建築を勧めています。消火の体制も、この前後で厚みを増していきました。東京消防庁の資料をたどると、大名に命じてつくらせた大名火消が寛永20年(1643年)に、幕府直属の定火消が明暦の大火の直後に整えられ、町人が自分たちの町を守る町火消は、享保3年(1718年)に町奉行の大岡忠相のもとで組織されます。「いろは」の名を振り分けた48組に、本所・深川の16組を加えた計64組。彼らの消火の主な手立ては、水をかけることではなく、火の進む先の家を壊して燃えるものを断つ、破壊消防でした。放水の技術が乏しいなかで火を止めるには、これがいちばん確実だったのです。

ごみの処分も少しだけ触れておくと、東京都環境局によれば、江戸のごみを一か所に集めて埋め立てる仕組みは明暦元年(1655年)、永代浦への埋め立てにさかのぼるといいます。いまの東京がごみを埋め立てている東京湾の埋立地は、この永代浦を遠い先祖に持っています。

なぜ、これだけの仕組みが育ったのか

こうして並べてみると、江戸のインフラがかなり手の込んだものだったことがわかります。ではなぜ、これほどの仕組みが生まれたのか。

いちばん効いたのは、江戸が幕府の造った政治の中心地で、参勤交代の大名やその家臣を含む武家の人口が、ここに厚く積み上がったことでしょう。人が集まれば、水も食料も、その始末も、大がかりに手当てするほかなくなります。加えて、町人が自分たちの生活の場を自分たちで回す自治の力を持っていたこと、そして資源が豊かでなかったぶん、あるものを使い切る知恵が磨かれたことも重なりました。火消も、下肥のやりとりも、担い手の多くはその町人です。

ただ、その姿を手放しで持ち上げるのは避けたいところです。上水を引き、汚物を循環させ、火消を組んでもなお、江戸は繰り返し大火に焼かれ、疫病に見舞われ、身分や貧富の隔たりを抱えた町でした。インフラが高度だったことと、そこでの暮らしが安楽だったことは、別の話です。玉川上水の92メートルの傾きも、し尿を買い取る農家も、家を壊して火を止める火消も、100万人が住む町をどうにか回すために編み出された、その時代なりの間に合わせだったのだろうと思います。

参考・出典

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