「天皇」という言葉を、私たちは当たり前のように使います。けれど、その称号がいつ生まれたのかと聞かれると、すぐには答えられません。じつはこの呼び名、日本の歴史の最初からあったわけではないのです。7世紀のある時期に、それまでとは違う新しい称号として、意図的に選ばれたものでした。
では、それ以前は何と呼んでいたのか。そして、なぜわざわざ呼び名を変えたのか。一つの称号の誕生をたどると、古代の日本が国のかたちと、外の世界に対する自分の位置を、必死に定めようとしていた時代が見えてきます。
「大王」と呼ばれていたころ
天皇の前は、「大王」でした。オオキミと読みます。
ヤマト王権の首長は、長らくこの大王の名で呼ばれていました。埼玉の稲荷山古墳から出た鉄剣の銘文に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」とあるように、5世紀にはすでに使われていた、由緒ある称号です。「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」——天の下を治める大王、という言い方もありました。
ただ、この称号には弱点がありました。中国を中心とする東アジアの秩序のなかで、「王」という号は、皇帝に臣従する者に与えられる位だったのです。対等の立場で渡り合おうとするとき、「王」のままでは具合が悪い。そうした事情も、新しい称号が求められた背景の一つにあったと考えられています。
推古朝の国書という手がかり
最初の手がかりは、推古朝(592〜628年)にあります。
よく知られているのが遣隋使です。607年、小野妹子が携えた国書は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まりました。隋と対等であるかのようなこの書き方に、隋の煬帝は「無礼な蛮夷の書だ」と不快感を示したと伝わります。コトバンクの遣隋使の解説によれば、翌608年に改められた国書は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す(東天皇敬白西皇帝)」という形だったとされ、ここに「天皇」の語が見えます。さらに法隆寺金堂の薬師如来像の光背銘(607年)にも、「池辺大宮治天下天皇」という文字が刻まれています。
これだけ見ると、推古朝にはもう天皇号があったように思えます。実際、この推古朝説は長く有力とされてきました。
その証拠は、あとから書けた
ところが、これらの証拠には弱みがあります。後から書き換えられた可能性が拭えないのです。
608年の国書の文面を伝えるのは『日本書紀』です。書紀が編まれたのは8世紀、天皇号がすっかり定着したあとですから、編纂のときに当時の表現へ整えた——つまり潤色した疑いがある。同時代の中国側の記録である『隋書』倭国伝には、この「東天皇」という言い回しは出てきません。薬師如来像の光背銘も、仏像の様式などから、銘文が後世に追刻されたのではないかと疑われています。
物証として一見強そうな仏像の銘や国書の文面に、じつは後の世の手が入っているかもしれない。推古朝説の足元は、思ったより心もとないのです。決め手は、もっと別のところから出てきました。
飛鳥池の木簡
それが、飛鳥池遺跡から出た木簡です。
飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の東南の谷あいにあった、7世紀後半の国家的な工房群です。奈良文化財研究所によれば、ここは天武・持統朝の時期に最も活発に稼働した官営工房で、日本最古の鋳造貨幣である富本銭もここで作られていました。数千点もの木簡が出土したこの場所から、「天皇」と墨で書かれた木簡が見つかったのです。
決定的だったのは、いっしょに出た木簡でした。同じ地層から「丁丑年」、すなわち天武天皇6年(677年)にあたる年を記した木簡も出ています。史跡ナビの解説でも、これにより天武天皇の時代には確実に天皇号が使われていたと判明した、と整理されていました。仏像や文献のように後から書き換えるのが難しい、地中から出た同時代の物証。発見は1990年代末のことです。長く決着のつかなかった論争の流れは、これで天武朝説へと大きく傾きました。
なぜ「天皇」だったのか
では、天武朝はなぜ「天皇」という言葉を選んだのでしょう。ここで中国が関わってきます。
唐では、674年に高宗が自らの称号を「天皇」とし、皇后を「天后」と称しました。日本がそれを知らずに、より早く同じ語を使い始めたとは考えにくい。この前後関係も、推古朝より天武朝に天皇号の成立を置く説を後押ししています。
そもそも「天皇」という語には、道教の宇宙観が宿っています。夜空でただ一つ動かない北極星を神格化したのが「天皇大帝」で、天はその不動の中心の周りを回る、という考え方です。天の中心にあって動かない存在——王を超えた、宇宙の秩序になぞらえた称号。臣従を含意する「王」を脱し、皇帝とも対等であろうとした古代日本にとって、これはうってつけの言葉でした。天武天皇の時代そのものが道教的な色合いを帯びていたことも、よく知られています。
制度に書き込まれる
称号は、選ばれただけでは定着しません。それを国の骨格に刻み込んだのが、律令でした。
天武朝に編纂が始まった飛鳥浄御原令、そして701年の大宝律令を通じて、「天皇」は法制度のなかの正式な君主号として位置づけられます。のちの養老令の儀制令には、使い分けまで定められています。祭祀のときは「天子」、詔書では「天皇」、外国に向けては「皇帝」。場面ごとに名乗りを決めておくほど、天皇号はもう制度の一部になっていました。
「ミカド」と呼ばれ続けて
もっとも、制度の上で「天皇」が定まったあとも、人々が日常でその2文字を口にしたかというと、そうでもありません。
平安時代以降、実際の場では「内裏(ダイリ)」「御門(ミカド)」「院」といった、直接の名指しを避けた遠回りの呼び方が広く使われました。天皇号は、あくまで文書や制度の上の正式名称として生き続けたわけです。この称号が法的にただ一つの呼び名として固定されるのは、ずっと下って明治のこと。大日本帝国憲法と旧皇室典範によって、「天皇」が制度上はっきりと一本化されました。7世紀に生まれた言葉が、近代国家の君主号として改めて定義し直されるまでに、1200年以上の時間がかかっています。いつ生まれたのかという問いの答えが一つに定まらないのは、称号というものが、生まれた瞬間より、使われ書き継がれていく過程のなかで形を得ていくからなのでしょう。
参考・出典
- 奈良文化財研究所「奈良県飛鳥池遺跡出土品、西隆寺跡出土木簡の重要文化財指定について」 https://www.nabunken.go.jp/news/2025/03/20250321press.html
- 松岡正剛の千夜千冊「大津透『天皇の歴史01 神話から歴史へ』」 https://1000ya.isis.ne.jp/1796.html
- コトバンク「遣隋使」 https://kotobank.jp/word/遣隋使-60749
- 史跡ナビ「飛鳥池工房遺跡」 https://shisekinavi.com/asukaikekoboiseki/
- Wikipedia(補助)「天皇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇


