「子午線のまち、明石」。日本でいちばん名の知れた経線の通り道として、この呼び名はよく知られています。明石に子午線が通っているから、東経135度が日本の標準時の基準になった——なんとなくそんな順序を思い描いている人も多いのではないでしょうか。
ですが、話は逆です。先に「東経135度を基準にする」と決まり、その線の上に、たまたま明石があった。しかも、その線が通る町は明石だけではありません。では、なぜ明石が「子午線のまち」になったのか。その答えは地理ではなく、人の側にありました。
子午線が通るのは明石だけではない
東経135度の経線は、日本の陸地だけでも12の市を貫いています。北から京都府京丹後市、兵庫県豊岡市、京都府福知山市、そして丹波・西脇・加東・小野・三木・神戸・明石・淡路をへて、和歌山市の沖でようやく海に出ます。明石は、そのうちの一つにすぎません。
「いちばん中心を通っているから明石」という説明も、後から測ってみればそう言える、という程度のものです。明石が最も短い区間で線をまたいでいるのは確かですが、2位の三木市との差は1キロほど。地理だけで明石が抜きん出ていたわけではありません。
なぜ「東経135度」だったのか
出発点は、明石とも、そもそも日本とも関係のない場所にありました。1884年(明治17年)、アメリカの首都ワシントンで国際子午線会議が開かれます。世界の経度の基準となる本初子午線をどこに置くか。投票の結果、イギリスのグリニッジ天文台を通る線が経度0度に選ばれました。明石市立天文科学館の解説によれば、パリ天文台を推したフランスは最後まで抵抗したと伝わります。
経度を15度ずらすごとに時差が1時間生まれます。だから15の倍数の経線を標準時に選べばきりがいい——よく聞く説明です。けれど、ここには見落としがあります。国際子午線会議が決めたのは本初子午線の位置までで、その先、どの経線の時刻を自国の標準時にするかは、各国に委ねられていました。東経135度は、自動的に転がり込んできた数字ではないのです。
それを選び、政府に通す役回りを担ったのが、数学者の菊池大麓でした。会議に日本から派遣されたのは、外交官でも閣僚でもなく、この1人の学者です。菊池は会議より前から、グリニッジが本初子午線になれば日本列島のほぼ真ん中を東経135度が通る、その時刻を標準時にすれば国内をひとつの時刻でそろえられる、と論じていました。「15の倍数だから自動的に明石あたりに決まった」という淡白な話ではなく、1人の人物が早くから狙いを定めて動いていた——調べていて、そこが思いのほか生々しく感じられました。
勅令が決めたこと
帰国した菊池の意見をもとに審査が進み、1886年(明治19年)7月13日、勅令第51号が公布されます。東経135度の子午線の時刻をもって日本一般の標準時と定める、という内容です。施行は1888年(明治21年)1月1日。各地がてんでに使っていた地方時——その土地ごとの太陽が決める時刻——が廃され、全国が同じ針で動きはじめました。
ややこしいのは、この後しばらく日本に標準時が二つあったことです。1895年(明治28年)、台湾や八重山・宮古の島々向けに東経120度の「西部標準時」が設けられ、もとの135度のほうは「中央標準時」と呼ばれるようになります。二つの時差は1時間。西部標準時が廃され、日本の時がふたたびひとつに戻るのは、1937年(昭和12年)のことでした。
24年の空白
ここまでが「東経135度が標準時になる」までの話です。けれど、明石が「子午線のまち」を名乗りはじめるのは、まだずっと先になります。
標準時が定められた1886年から、明石で日本初の子午線標識が建つ1910年(明治43年)まで、24年あまりの開きがあります。神戸新聞も、この「空白」を正面から取り上げています。標準時が決まった瞬間に明石が沸いた、というわけではまったくなかったのです。当時、掛時計や置時計を持つ家はまだ少なく、線がどこを通ろうと、日々の暮らしの実感とは結びつきにくい。足元を子午線が通っていると気づくには、何かきっかけが要りました。
教科書が運んだ気づき
そのきっかけを、子午線研究家の吉野健一さんは教科書に見いだしています。
1903年(明治36年)、教科書をめぐる汚職事件をきっかけに、国が内容を統一する国定教科書の制度が始まります。1905年(明治38年)から使われた高等小学校の算術教科書に、「経緯度及び標準時」という単元が初めて入りました。神戸新聞が紹介する吉野さんの調査によれば、教員向けの指導書には、中央標準時は東経135度の地、すなわち播磨国明石附近の地方時である、とはっきり書かれていたといいます。
教える側は、まずそれを自分で理解しなければなりません。算術を担当した明石郡の教員たちは、この一文を通して、自分の郡を日本の時刻の基準線が貫いていることを、ほかの土地に先がけて知ることになりました。
自腹で建てた標識
そして1910年(明治43年)、明石郡の小学校長会で、国内初の子午線標識を建てることが決議されます。費用は、郡内の教員が月給の1.5パーセントを出し合って賄いました。お上が建てたのでも、記念に予算がついたのでもありません。教える立場の人間が、自腹で石碑を据えたのです。建てられたのは「大日本中央標準時子午線通過地識標」。おもしろいのは、これが教育勅語発布20周年の記念事業として建てられている点で、誰もが意義を認めやすい行事に相乗りした世話人たちの算段も、うっすら透けて見えます。
ここで、話の輪がひとつ閉じます。国際会議で東経135度を背負って立った菊池大麓は、のちに文部大臣として、まさにこの国定教科書の制度を導入した張本人でもありました。彼が世界の会議で守った数字が、彼が整えた教科書を通って明石の教室に届き、石碑になった。狙ってできる筋書きではありません。
動く子午線、動く標識
最後に、少し人を食った話を。子午線は地面に引かれた不動の線、というわけでもないのです。測量の精度が上がるたびに「正しい135度」の位置は少しずつ動き、標識もそのたびに据え直されてきました。1930年(昭和5年)には、地球をかたどった籠の上に、日本の古名「あきつ島」にちなんでトンボを載せた標識が建ちます。「トンボの標識」と親しまれたこの碑を見上げて宇宙への興味を抱いたのが、幼い松本零士だったという逸話も残っています。1960年(昭和35年)には、子午線の真上に明石市立天文科学館が開きました。
「子午線のまち」は、地形が授けた称号ではありませんでした。世界の取り決めと、1人の数学者のこだわりと、足元の線にようやく気づいた教師たちの自腹。その三つが二十数年をかけて重なったところに、明石の子午線は立っています。
参考・出典
- 明石市立天文科学館「東経135度と日本標準時」 https://www.am12.jp/135-jstm/
- 明石市立天文科学館「明石と子午線」 https://www.am12.jp/akashi-shigosen/
- 吉野健一「算術教育史から考察する『子午線のまち明石』の誕生——国定算術教科書と子午線標識建立との関係——」『数学教育史研究』第22号、2022年(J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshsme/22/0/22_13/_pdf/-char/ja
- 神戸新聞NEXT「なぜ?『子午線のまち』標識建立まで20年以上の『空白』明石」 https://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/202112/0014906395.shtml
- ウィキペディア「西部標準時」 https://ja.wikipedia.org/wiki/西部標準時


