六甲山はなぜハイキングの山になったのか——居留地外国人がもたらした文化と、市民に根づくまでの半世紀

歴史

神戸の市街地を歩いていると、北の空にいつも六甲山が見える。標高931メートル。新幹線の窓から見ても、ポートアイランドの埠頭から見ても、それはひとつの壁のように市街の後ろに立ちはだかっている。

この山に、近代的な意味でのハイキング文化が根づいたのはいつのことか。答えを一言で言えば、幕末の開港に始まる「外国人居留地の時代」からだということになる。だが、文化が外から持ち込まれることと、それが市民の習慣として広がることは、別の話だ。

六甲山がなぜ「ハイキングの山」になったのかを追うと、外国人が開拓した山上の空間と、それを受け取った神戸の市民という、二段階の物語が見えてくる。

はげ山だった、という事実

まず意外な事実を一つ。

現在、六甲山は深い緑に覆われた山として知られている。神戸市民の誰もがそのイメージを持っているだろう。だが明治初期の六甲山は、今の姿とまったく異なる荒涼たる「はげ山」だった。

明治14年(1881)、植物学者の牧野富太郎は「瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った」と回想している。海から見た六甲山が白く輝いていたのは、雪ではなく花崗岩がむき出しになった岩肌だったのだ。

中世以来の戦乱と木材採取、江戸時代を通じた伐採が、山肌を削り続けた。戦国期には花隈合戦があり、大阪城再築の際には六甲山の石材が大量に切り出された。徳川時代の神戸周辺だけでも四十数回の洪水が記録され、そのたびに土砂が下流へ流れ出た。人々が登りたいと思うような山ではなかった。

山が緑を取り戻したのは、明治後期から大正にかけての大規模な植林事業の成果だ。この点はのちに触れる。

1874年、三人の外国人

近代的な意味での登山の記録として、六甲山に残る最古のものは明治7年(1874)のことだ。ウィリアム・ガウランド、アトキンソン、サトウという三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを使って六甲山に登った。これが日本における西洋式登山の最初の記録とされている。

ガウランドは造幣局の化学技師として来日した人物で、のちに槍ヶ岳に登り「日本アルプス」という名称を初めて用いた人物でもある。サトウは富士山に初めて登った外国人として知られる外交官だ。つまりこの三人は、日本近代登山史を代表する人物たちだった。

ウォルター・ウェストンが「日本近代登山の父」として北アルプスを歩いたのは明治21年(1888)以降のことで、六甲山での登山記録はそれより14年も早い。日本の登山文化の出発点は、実は神戸の裏山にあった。

なぜ彼らは六甲山だったのか。神戸の外国人居留地は、背後にすぐ山が迫る立地にあった。ヨーロッパ人にとってアルプスやスコットランドの山歩きは日常的な余暇活動であり、目の前に山があれば登る——それだけのことだったとも言える。

グルームという人物

外国人による六甲山開発を語るとき、避けられない名前がある。イギリス人実業家のA.H.グルーム(Arthur Hesketh Groom)だ。

グルームは1868年に神戸へ来て貿易業を営み、オリエンタルホテルの経営にも携わった人物だ。明治28年(1895)、彼は六甲山上の三国池近くに自らの別荘を建てた。これが山上に建てられた最初の家とされている。

当時の六甲山はまだはげ山だった。別荘地としての魅力があったとすれば、それは涼しさと眺望だった。神戸の市街地より10度近く気温が低く、大阪湾まで見渡せる山上の視界は、熱帯的な夏の神戸で過ごす居留地の外国人たちには魅力的だったのだろう。

グルームは居留地の仲間たちに六甲山上の生活を勧め、明治31年(1898)頃には20〜30軒の別荘が山上に集まるようになった。明治43年(1910)頃には英国、米国、ドイツ、フランス、ベルギー、日本人を合わせて56軒の別荘が建ち、「神戸外国人村」と呼ばれるようになる。山上には郵便局も開かれ、駐在所も置かれた。山の上にひとつの街ができていた。

さらにグルームは、1901年に4ホールのゴルフコースをつくり、1903年には9ホールに拡張して「神戸ゴルフ倶楽部」を発足させた。日本最初のゴルフ場だ。ゴルフはグルーム自身が始めたばかりの趣味だったが、それをそのまま山の上に持ち込んだ。

江戸時代の道が「シュラインロード」になるまで

外国人が六甲山に入るようになると、以前から存在していた山道に新たな名前がついた。

神戸北区の唐櫃から六甲山を越えて灘方面へ続く道は、江戸時代には「唐櫃道」と呼ばれ、通行料を取られる公道を避けるための抜け道として使われていた。1804年に修験道の祠が置かれ、1825年には西国三十三カ所を模した37体の石仏が街道沿いに並んだ。魚屋、油屋、丹波杜氏、女中たちが石仏を寄進した記録が残っている。

明治以降、この道を歩く外国人居留者たちが、道中の無数の祠にちなんで「Shrine Road(シュラインロード)」と名づけた。英語の名が定着し、今も「シュラインロード」として神戸の代表的なハイキングコースのひとつになっている。江戸の庶民が祈りを込めて作った道が、明治の外国人の手によって別の意味を与えられ、現代へと受け継がれている。

「毎日登山」のはじまり

外国人の登山習慣がそのまま神戸市民に広がったわけではない。そこにはもう一つの経路があった。

再度山では明治38年(1905)頃から、山歩きを楽しむ居留外国人たちが山上の「善助茶屋」に署名する習慣が根づいた。山に登るたびに名前と回数を記帳するこの慣習が、やがて周辺の市民の間にも広がっていく。

登山の記録を競い合う「毎日登山」という文化だ。当初は「毎朝登山」と呼ばれ、大正時代には400以上の登山団体があったとされる。神戸ヒヨコ登山会の創立は大正11年(1922)で、現在も500人以上の会員を擁し、六甲山系の7支部にわたって活動を続けている。

現在も六甲山系の11の山筋に愛好者がおり、なかには登山回数が2万回を超える常連もいる。毎日続けることに意味があり、その記録が山の茶屋に刻まれていく——この文化は、欧米のアルピニズムとも、日本の修験道とも違う、神戸固有のものとして育ってきた。

鉄道会社が整備した山

大正から昭和にかけて、六甲山のハイキング文化を面として広げる役割を担ったのは鉄道会社だった。

大正元年(1912)、阪神電鉄はレクリエーション施設「阪神クラブ」を山上に開設した。大正14年(1925)には阪急電鉄が「六甲阪急倶楽部」を設け、100名が収容できる食堂と宿泊施設を整えた。昭和3年(1928)には裏六甲ドライブウェイが開通し、翌年には表六甲ドライブウェイも整備された。昭和6年(1931)には阪急の六甲ロープウェーが開通し、昭和7年(1932)には六甲ケーブルも開通した。昭和9年(1934)には東六甲ドライブウェイが完成し、六甲山上は宝塚方面とも結ばれた。

ロープウェー1本、ケーブルカー2本、複数のドライブウェイ。昭和初期の六甲山は、国内でも有数のアクセスを誇るリゾート地として整備されていた。これと同じ昭和9年、六甲山は瀬戸内海国立公園として日本初の国立公園に指定されている。

鉄道会社にとっては沿線価値の向上という動機があったかもしれない。だがその整備が、登山口まで気軽に行ける環境を作り出し、週末のハイキングという市民の習慣を根付かせた。

植林がなければ、今の六甲はなかった

最後に、現在の緑の六甲山がなぜ存在するのかに触れなければならない。

明治後期、相次ぐ水害と土砂災害を受けて、神戸市は本格的な植林事業に乗り出した。明治35年(1902)に再度山付近で始まった植林事業は、第2代神戸市長の坪野平太郎が造林学者の本多静六博士を招いて設計させたもので、常緑樹と落葉樹、針葉樹と広葉樹を組み合わせた計画植林だった。明治43年(1910)までの9年間で約650ヘクタールの造林を成就し、その後も継続されてきた。

グルームもこの植林事業に協力していた。私財を投じて自ら植樹を行い、兵庫県知事らに砂防と植林の必要性を説いたと伝えられる。そうした功績から彼は「六甲市長」と呼ばれ、明治45年(1912)には「六甲開祖之碑」が建てられた。第二次大戦中に「外国人のものだから」という理由で一度破壊されたが、昭和30年(1955)に再建され、今も六甲山上にある。

ハイキングの対象としての六甲山は、外国人が持ち込んだ文化と、行政・民間が積み重ねた植林の成果が合わさって成立している。荒廃した山を緑に変える長い作業なしに、今の六甲山はなかった。

整理——四つの条件が重なった山

六甲山が「ハイキングの山」になった経緯をまとめると、おおよそ次のようなものになる。

  • 幕末の神戸開港によって外国人居留地が形成され、欧米の登山・余暇文化が持ち込まれた
  • A.H.グルームをはじめとする居留地外国人が別荘地を開発し、登山道・ゴルフ場を整備した
  • 「毎日登山」の習慣が外国人から市民へと広がり、神戸固有の登山文化として定着した
  • 大正〜昭和の鉄道会社による交通インフラ整備が、ハイキングを市民レベルに解放した

それに加えて、植林事業による緑の回復という条件がなければ、山を歩く魅力も成立しなかった。

六甲山は、神戸という港町の開港史と切り離せない山だ。外国人が来なければ、鉄道会社が入らなければ、植林が行われなければ——その一つが欠けていても、今の六甲山は別の姿をしていただろう。居留地の外国人が「裏山」を歩き始めてから150年あまり。山はいまも市民の日課を受け入れ続けている。

参考・出典

タイトルとURLをコピーしました