有馬温泉はなぜ「日本最古」と呼ばれるのか——神話と地球科学が交差する名湯の正体

歴史

「日本最古の温泉」という言葉を、有馬の名とともに耳にしたことがある人は多いだろう。しかし、どの温泉が「最古」であるかを厳密に証明することは、実のところ難しい。道後温泉(愛媛県)や白浜温泉(和歌山県)も同様の称号を持ち、有馬と並んで「日本三古湯」と呼ばれている。それでも有馬が「最古」として語られ続けるのはなぜか。その背景には、神話の時代にさかのぼる記録と、現代科学が解き明かした地底の驚くべき仕組みとが、複雑に絡み合っている。

「最古」の根拠はどこにあるのか

有馬温泉の発見を伝える最も古い記録は、神話の領域にある。有馬の守護神を祀る湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったとされる。この二神が有馬を訪れた際、三羽の傷ついたカラスが水たまりで身を浸し、数日のうちに傷を癒しているのを目にした。その水たまりこそが温泉であったという。縁起によれば、この発見は約三千年前のことであり、それが「日本最古」とされる根拠の一つになっている。

一方、正史における初出は7世紀にさかのぼる。『日本書紀』の「舒明記」には、舒明3年(631年)9月から12月にかけて、舒明天皇が摂津国有馬の温湯宮に86日間滞在したと記されている。続いて孝徳天皇も大化3年(647年)に82日間の長期滞在を行っており、左大臣・右大臣をはじめとする多くの要人を伴っていたことも記録されている。これらの行幸が広く有馬の名を知らしめるきっかけとなった。

神話による起源と、正史に記された7世紀の記録。この二層の根拠が「日本最古」という呼称を支えている。ただし、それは他の温泉地と比較した絶対的な事実というよりも、文字として記された歴史の厚みと、神話的権威とが重なり合って生まれた評価と見るべきかもしれない。

三人の恩人による復興の歴史

「最古」という言葉が持つ重みとは裏腹に、有馬の歴史は繁栄と壊滅の繰り返しでもあった。舒明・孝徳両天皇の行幸によって名声を得た後、温泉は徐々に衰退に向かう。これを再興したのが、奈良時代の高僧・行基である。

行基は道中で出会った病人を助けようとしたところ、その人物が薬師如来の姿となり、有馬温泉の復興を告げて姿を消したという伝説が伝わる。行基はこれを受けて堂を建立し、温泉を整備した。以後約370年にわたって有馬は賑わいを見せたとされる。

11世紀末(承徳元年・1097年)、大洪水が有馬を壊滅状態に追い込んだ。この惨状が95年余り続いた後、再興を成し遂げたのが鎌倉時代の僧・仁西である。熊野権現のお告げに従って有馬を訪れた仁西は、荒廃した温泉を復活させ、温泉寺を再建した。さらに薬師如来の十二神将にちなんで12の宿坊を営んだ(建久2年・1191年)。現在も有馬の宿に「○○坊」と名のつくものが多いのは、このときの宿坊の名残である。

戦乱と大火が重なった戦国時代以降、有馬の再建に尽力したのが豊臣秀吉である。秀吉は合計9回にわたって有馬を訪れており、慶長伏見地震(1596年)後に急激に高温となった泉源の大規模な改修工事を行った。この工事の完成度はきわめて高く、その後350年にわたって泉源の改修が不要だったと伝えられている。

行基、仁西、豊臣秀吉。この三者は「有馬の三恩人」として今日も称えられている。

火山のない土地に、なぜ高温の湯が湧くのか

有馬温泉には、地質学的に見ても特異な側面がある。近畿地方には活火山が存在しない。通常、日本の高温温泉は火山活動によって生まれるため、本来であれば有馬に高温の温泉が湧くはずがない。それではなぜ、最高98℃にもなる泉源が存在するのか。

神戸大学などの研究グループが2020年に発表した成果によれば、この謎はフィリピン海プレートの特殊な挙動で説明できるという。九州の下には古くて冷たいプレートが沈み込むため、深いところで水が絞り出されてマグマが生成され、多数の活火山が生まれる。一方、中国・近畿地方の下には若くて熱いプレートが沈み込んでおり、比較的浅い地下約60キロの地点で早々に水が絞り出される。この高温の流体が地表へ上昇したものが有馬温泉であり、プレート内の水が早い段階で消費されるため、マグマを生成する水が残らず、火山も生まれない構造になっている。

さらに、地表への上昇経路となっているのが「有馬-高槻構造線」と呼ばれる活断層である。この断層の破砕帯が水の通り道となり、深部の高温流体が地表まで噴出する仕組みになっている。

この仕組みから導き出されるもう一つの事実がある。有馬の湯のもとをたどれば、それはフィリピン海プレートの岩石中に取り込まれた海水に行き着く。プレートの移動速度はきわめて遅いため、海水がプレートに取り込まれてから地表へ湧き出すまでに要する時間は約600万年と推定されている。有馬の湯を構成する水は、600万年前に海に存在した水が、大地の深部を巡って地表へと還ってきたものという見方もある。

金泉と銀泉——なぜ二種類の湯が同じ土地から湧くのか

有馬温泉には「金泉」と「銀泉」と呼ばれる二種類の湯がある。両者はその性質が対照的であり、同じ温泉地から異なる泉質が湧出する例は世界的にも希少とされる。

金泉は、鉄分・塩分・炭酸などを豊富に含む赤褐色の湯である。湧出直後は透明だが、空気に触れると鉄分が酸化して茶褐色に変色する。プレートから直接絞り出された成分がそのまま凝縮された湯であり、その塩分濃度は海水を上回る。

銀泉は、金泉とは対照的に無色透明で、炭酸泉とラジウム泉に大別される。これは金泉の成因とも深く関係している。地底から金泉が上昇する途中、圧力が下がることで炭酸ガスが分離して浮上し、六甲山地の地下水と反応して生まれるのが銀泉の炭酸泉である。つまり、銀泉は金泉の副産物として生まれる湯といえる。

環境省の指針が定める療養泉の主成分9種類のうち、有馬温泉には硫黄泉と酸性泉を除く7種類が含まれており、これは世界的に見ても珍しい構成である。

「最古」という呼称が意味するもの

有馬温泉の「最古」とは、単に古いというだけでなく、神話・正史・地質という三つの時間軸が交差する地点に立つ温泉であることを意味している。神話の時代に神々が発見し、天皇が行幸し、幾度も壊滅しながら三人の恩人の手で甦り、江戸時代の温泉番付では最高位の西大関を与えられた。その一方で、地底では600万年前の海水がフィリピン海プレートとともに沈み込み、今まさに地表へと還ってくる過程が続いている。

他の温泉地も同様の長い歴史を持つ。「最古」という言葉が絶対的な事実を示すというよりも、それだけ多くの記録と物語を積み重ねてきた場所であることの証ともいえるかもしれない。清少納言が『枕草子』に記し、豊臣秀吉が通い、谷崎潤一郎が長逗留して執筆した湯は、歴史という名の蓄積によって「最古」の重みを帯びてきたのだろう。

まとめ

有馬温泉が「日本最古」と呼ばれる根拠は、複数の層から成り立っている。

  • 神話的根拠:湯泉神社の縁起に基づく約三千年前の発見伝説
  • 文献的根拠:『日本書紀』に記された舒明天皇の行幸(631年)
  • 地質的特殊性:フィリピン海プレートに由来する非火山性の高温泉という世界的にも希少な仕組み

それぞれの根拠は性質の異なるものであり、「最古」という言葉には神話・歴史・科学が渾然と混じり合っている。確かなのは、有馬が幾度も滅びながら再生を繰り返し、日本人の生活と文化の中に深く根を張り続けてきた温泉地であるということだ。

参考・出典

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