灘五郷はいつから「五郷」になったのか ——酒どころの形成史

歴史

「灘五郷」は江戸時代には存在しなかった

灘五郷という名前は広く知られています。兵庫県の西宮・神戸沿岸に広がる日本最大の清酒産地で、国内生産量の約25パーセントを担っています。

ところで、この「五郷」という枠組みはいつから存在するのでしょうか。実は、現在よく知られている灘五郷という区分は、江戸時代には存在しませんでした。明治21年(1888年)に刊行された『摂州灘酒造方法実験説』に、「明治十九年同地ノ同業者相謀リ同地ニ灘酒造業組合事務所ヲ設置スルニ至リテ更ニ西ノ宮、今津ノ二郷モ此内ニ加ヘリ」という記述があります。

つまり、灘五郷という枠組みは明治19年(1886年)に初めて誕生したのです。

そもそも「灘」とはどこを指したのか

「灘」という名称が文献に登場するのは正徳6年(1716年)とされています。当時は現在の灘五郷よりも広い範囲を指しており、東は武庫川河口から西は旧生田川あたりまで、沿岸約24キロメートルにわたる地帯全体が「灘目(なだめ)」と呼ばれていました。「灘辺」という意味です。明和年間(1764年〜)には「灘目」という呼称が定着していきます。

この広い灘目の中で、酒造業の中核地帯はどのように形成されていったのでしょうか。

酒造りの始まり:室町から江戸初期

伝承によれば、灘での酒造りは元弘・建武の昔(1330年頃)にさかのぼるとされます。室町時代中期の一条兼良の随筆『尺素往来』には「西宮、兵庫の旨酒」についての言及があり、この頃すでに西宮で酒造が行われていたと考えられています。

近世以降の記録に目を向けると、江戸時代前期の寛永年間(1624〜1645年)に、伊丹の雑喉屋文右衛門が西宮に移住して醸造業を始めたのが、後の灘五郷につながる酒造りの起点とされています。多くの酒造家が追従し、明暦から享保の約60年間(1655〜1736年)に今日まで続く酒造家が多く創業しました。

この時期の灘はまだ、伊丹・池田といった先行する産地の後塵を拝していました。伊丹・池田は江戸積み酒造の先進地として知られており、元禄10年(1697年)に江戸に送られた酒の産地の中には兵庫の名が含まれますが、灘目はまだ江戸積み酒造地域には含まれていませんでした。

「三郷」から「五郷」へ:江戸時代の分化

上方酒造業者の株仲間が結成された明和9年(1772年)、灘目の酒造地は「上灘」と「下灘」の二郷を形成しました。そこに今津郷を加えた三郷が、後の灘五郷の原型です。当時はこの三郷が灘酒造業の中核をなしていました。

その後、文政11年(1828年)に変化が起きます。上灘がさらに東組・中組・西組の三組に分化したのです。東組の魚崎、中組の御影、西組の新在家・大石が中心となりました。この上灘三組と下灘、今津をもって、江戸時代の「灘五郷」が形成されました。

ただし、このときの五郷は現在の区分と少し異なります。現在の灘五郷は「今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷」ですが、江戸時代の五郷における「下灘」の位置づけや各郷の範囲は、明治以降に再編された現在の枠組みとは地域的に若干異なっていました。現在の形が確定したのは、前述のとおり明治19年(1886年)のことです。

灘が天下に知られるまで:四つの条件

灘が伊丹・池田を追い越し、江戸後期には「江戸の酒の需要の8割を供給した」といわれるほどの産地になった背景には、複数の条件が重なっています。

水車精米

18世紀前半、芦屋川・住吉川・六甲川などの急流には水車群が設けられました。従来の足踏み精米と比べ、水車を使うことで精白度が大幅に向上し、精米量も飛躍的に増加しました。高品質な白米を大量に得ることが、灘酒の量産化と品質向上を同時に実現しました。

宮水の発見

天保11年(1840年)、櫻正宗の六代目蔵元・山邑太左衛門が、西宮の特定の井戸水が酒造りに格別に優れていることを突き止めました。西宮と魚崎の両方に蔵を持っていた山邑は、同じ米・同じ杜氏を使っても西宮の酒が毎年優れることに気づき、ついに仕込み水を魚崎に運んで試したところ、魚崎の蔵でも同等の酒ができました。これが「宮水(みやみず)」の発見です。

宮水はリン・カルシウム・カリウムを豊富に含む中硬水で、鉄分がほとんど含まれていないのが特徴です。鉄分は酒を変色させ風味を損なう原因となりますが、宮水で仕込んだ酒は夏を越しても味が落ちず、秋になるとむしろまろやかさが増す「秋晴れ」と呼ばれる熟成を迎えます。この評判が広まると、灘の酒造家は競って西宮に井戸を求め、宮水を他郷の蔵まで運んで仕込みに用いました。現在も西宮の500メートル四方の区画に各酒造会社の井戸が密集しています。

丹波杜氏の技術

酒造りを担った職人集団は、六甲山の北側、丹波地方(現・兵庫県篠山地域)から農閑期に出稼ぎに来る丹波杜氏でした。南部(岩手)・越後(新潟)と並ぶ日本三大杜氏の一つに数えられ、厳冬期に仕込む「寒造り」や「三段仕込み」などの技法を確立しました。六甲山系のミネラル豊富な硬水である宮水の特性を生かす醸造法を体系化したのも丹波杜氏の技術でした。

港と樽廻船

灘五郷の沿岸には西宮・今津といった港があり、水上輸送の面で大きな優位がありました。享保15年(1730年)、酒問屋が菱垣廻船問屋から独立し、酒樽専用の「樽廻船」を運航するようになります。酒樽だけを積むため積み込みが効率的で輸送日数を短縮でき、かつ運賃も安かった。江戸まで最速57時間という記録も残っています(「新酒番船」と呼ばれる着順レースの記録)。

輸送の途中で杉樽の香りが酒に移り、海の揺れが熟成を促す効果もありました。江戸の人々は上方からはるばる波に揉まれてやってきた酒を「富士見酒」と呼んで親しんだといいます。江戸末期には樽廻船で下った酒は年間100万樽に達し、江戸の酒の消費の8割を灘が担うまでになりました。

灘五郷のあゆみ:整理

灘五郷が現在の姿に至るまでを時系列で整理すると、次のようになります。

  • 室町時代中期(14〜15世紀) 西宮で酒造りが始まる。「西宮のうま酒」と称されていた
  • 寛永年間(1624〜1645年) 伊丹から西宮への移住者が酒造業を開始。多くの酒造家が創業する勃興期
  • 正徳6年(1716年) 「灘」の名称が文献に登場
  • 明和年間(1764年〜) 「灘目」という呼称が定着
  • 明和9年(1772年) 上灘・下灘の二郷と今津郷を合わせた「三郷」体制が成立
  • 文政11年(1828年) 上灘が東組(魚崎)・中組(御影)・西組(新在家・大石)に分化し、江戸時代の「灘五郷」が形成される
  • 天保11年(1840年) 宮水が発見され、品質が飛躍的に向上
  • 明治19年(1886年) 灘酒造業組合が設置され、現在の「今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷」からなる灘五郷の枠組みが確定
  • 昭和20年(1945年) 阪神大空襲で壊滅的被害を受けるが、その後復興
  • 平成7年(1995年) 阪神・淡路大震災で再び大きな被害を受けるが、耐震化を進め復興
  • 2020年 「伊丹諸白と灘の生一本」が日本遺産に認定

「下り酒」が作った文化

下り酒というのは、上方(関西)から江戸へ下って(送られて)きた酒のことです。転じて、上方から来た品質の良いものを「くだりもの」といい、品質の低いものを「くだらない(下り物ではない)」と呼んだのが「くだらない」という言葉の語源だという説があります。

灘の酒は単に消費地に届けられただけでなく、江戸という大消費都市の酒文化の形を作りました。清酒のスタンダードを築いたのは灘の酒造家と丹波杜氏であり、そこには水と米と技術と輸送インフラが複雑に絡み合っていました。

まとめ

灘五郷は今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷の五つの郷からなりますが、この現在の形が確定したのは明治19年(1886年)のことです。江戸時代には「三郷」から始まり、文政11年(1828年)に五郷へと分化した経緯がありますが、その区分は現在と完全には一致しません。

酒造りそのものの歴史は14〜15世紀の室町時代にさかのぼり、近世以降は水車精米・宮水・丹波杜氏・樽廻船という四つの要素が重なり合って飛躍しました。灘が「日本一の酒どころ」になったのは、単一の発明や発見によるものではなく、複数の条件が折り重なって生まれた結果です。

参考・出典

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