五色塚古墳はなぜ海を向いているのか——明石海峡を見下ろす兵庫最大の前方後円墳

歴史

神戸市垂水区の住宅街を歩いていると、突然、巨大な丘が現れます。全長194メートル。3段に築かれた墳丘の斜面には無数の石が敷き詰められ、頂上には埴輪が並ぶ。五色塚古墳です。

JR垂水駅から徒歩15分ほど。周囲はごく普通の住宅地なのに、前方後円墳がそのままの姿でそこにあります。

規模と基本データ

五色塚古墳は4世紀後半の築造とされる前方後円墳で、兵庫県内最大の古墳です。主な数字を挙げると、全長194メートル、後円部の直径125.5メートル・高さ18.8メートル、前方部の幅82.4メートル・高さ13メートル。周囲には幅10メートル前後の周濠が巡っています。

築造当時の規模でいえば全国でも上位に入るクラスであったと考えられており、この時代に近畿圏以外でこれほどの規模の古墳が築かれたことは、被葬者がヤマト王権と深く結びついた有力者であったことを示唆します。

墳丘には約223万個の葺石が敷き詰められています。この石の多くは淡路島から運ばれたとされており、海を渡って石材を調達するだけの組織力と権力が、この古墳の背後にあったことがわかります。墳丘の各段と頂上部には高さ約1メートルの円筒埴輪が総数約2,200本並べられていたと推定されており、その壮観な姿が「千壺古墳」という別名の由来になったとも言われています。

なぜ海を向いているのか

古墳の立地は興味深いです。

一般的に古墳は、被葬者が支配した平野を見下ろす、あるいは平野からよく見える位置に築かれます。しかし五色塚古墳は、垂水丘陵の南端に位置し、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む台地の上に建てられています。平野ではなく、海峡を見下ろしているのです。

この立地から、被葬者は海上交通と深く関わった有力者であったと考えられています。明石海峡は本州と淡路島が最も狭まる地点であり、古代から瀬戸内海を行き来する船の要衝でした。陸上では摂津国と播磨国を結ぶ山陽道が通り、海と陸の交通を同時に押さえる戦略的な位置です。

この地を支配した人物が誰であったかについては複数の説があります。明石国造の墓であるという説、神功皇后に関連づける伝承もありますが、いずれも確証はなく、現在も被葬者は不明のままです。墳頂部の埋葬施設がどこにあるか、どのような形式かも、調査が及んでいないために詳細がわかっていません。

日本初の「復元整備」古墳

五色塚古墳には、もう一つ重要な来歴があります。日本で最初に、築造当時の姿に復元整備が行われた古墳である、という点です。

1921年(大正10年)に国の史跡に指定された後、1965年(昭和40年)から10年をかけて発掘調査と復元整備工事が実施されました。費用は約2億5,200万円。葺石の敷き直し、埴輪のレプリカの設置、墳丘形状の整形が行われ、1975年(昭和50年)に史跡公園として開園しました。

この復元整備は全国の古墳整備のモデルとなり、以後各地で同様の事業が行われるようになります。ただし復元の是非については当初から議論がありました。「手を加えず自然のままにしておく方が郷愁を誘う」「右へならえ式の整備になっている」という批判的な声がある一方、「前方後円墳の正しい理解につなげるには築造当時の姿が必要」という主張もありました。復元か保存かという問いは、文化財行政における普遍的な論点であり、五色塚はその最初の事例として位置づけられています。

復元整備から50年が経った2025年、神戸市は五色塚古墳の節目を記念した特別事業を展開しました。夜間にキャンドル約1,700個を設置した幻想的な特別開園が行われたほか、ガイダンス施設「五色塚古墳館」の整備が進められています。

謎の核心——埋葬施設はどこにあるか

五色塚古墳には、まだ解明されていない根本的な謎があります。被葬者が葬られている埋葬施設の場所と形式が、現在もわかっていないのです。

通常、前方後円墳の埋葬施設は後円部の頂上付近に設けられます。しかし1965年からの発掘調査では、墳形の確認を主な目的としたため、後円部頂上の本格的な調査は実施されませんでした。史跡であるため保護の観点から基本的には発掘ができず、内部の構造は謎のままです。

この問題に対して近年注目されているのが地中レーダー探査です。非破壊で地中の様子を調べることができるこの技術を用い、埋葬施設の位置と古墳本体の傷みの有無を調査しようという試みが進んでいます。神戸市はこの探査費用を目的としたクラウドファンディングを実施し、支援を集めました。

探査の結果が出れば、1,600年以上にわたって不明のままだった被葬者像に、初めて物理的な手がかりが加わることになります。

小壺古墳と、周辺の遺跡群

五色塚古墳の西側には、同じく国の史跡に指定された小壺古墳があります。直径約60メートルの円墳で、五色塚古墳と同時期の築造とされています。五色塚古墳の「陪塚」(副葬的な墓)とみる説があり、両古墳はセットで史跡指定されています。

周辺には関連する遺跡も分布しています。舞子浜遺跡では円筒埴輪や朝顔形埴輪などを棺にした埴輪棺が砂浜に点在しており、五色塚古墳の被葬者に仕えた人々の墓であるという推測もあります。明石海峡沿いのこの一帯が、古墳時代の政治的・軍事的な要衝であったことを示す遺跡の密度は、注目に値します。

1,600年後の眺め

墳頂に立つと、明石海峡大橋と淡路島が一望できます。橋が架かるまで、この海峡は渡し舟で行き来するほかなかった。古墳時代には、この水道を行き来する木造の船が眼下に見えていたはずです。

被葬者が誰であれ、これほどの規模の墓を海峡を見下ろす位置に築いた意図は、生者への威圧であれ死後の守護であれ、この海を支配するという意志の表れとして読み取れます。

住宅街の中に突然現れるこの古墳は、1,600年以上前の政治的な意志が、現代の都市に埋め込まれたまま残っている場所です。

参考・出典

タイトルとURLをコピーしました