神戸市東灘区の住宅街に、「処女塚古墳」という前方後方墳がある。3世紀後半に築かれた地方豪族の墓であることは考古学的に示されているが、地元でこの塚が語られるとき、古墳としての来歴より先に浮かぶのは、一人の若い女性の話だ。二人の男に同時に求婚され、誰を選ぶこともできなかった彼女が命を絶ち、二人の男も後を追った——という伝説である。
この物語は奈良時代に万葉集に詠まれたのち、平安・室町・明治と時代を越えて繰り返し書き直されてきた。その変容の跡をたどることは、同じ物語がなぜ時代ごとに別の顔を持つのかを考えることでもある。
最古の記録——万葉集が描いた「悲しみの風景」
伝説を最初に文字に残したのは、奈良時代の万葉歌人・高橋虫麻呂である。万葉集巻第九に収められた長歌「見菟原処女墓時作歌一首 并短歌」(歌番号1809〜1811)が、現存する最古の記録にあたる。
虫麻呂の歌が語るあらすじはこうだ。葦屋(現在の芦屋市周辺)に住む菟原処女(うないおとめ)という美しい娘が、同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)の二人から激しく求婚される。剣を握り弓を持って争う男たちを前に、娘は「卑しい私のために立派な男たちを争わせた。生きていても誰とも結婚などできない、黄泉で待ちます」と母に告げ、入水する。その夜、茅渟壮士は夢で娘の死を知り後を追い、菟原壮士も負けじと小太刀を佩いて後を追った。親族たちは三人の墓を造り、娘の墓を中央に、二人の男の墓を左右に配したという。
同じ伝説は、田辺福麻呂と大伴家持も歌に詠んでいる。墓を実際に訪れたことを示す詞書を持つ虫麻呂の歌には、場所に積み重なった悲しみへの共感がにじむ。歌人たちが詠んだのは物語の再現というよりも、塚の前に立ったときの感情——知らない者の死を、まるで新しい喪のように泣いてしまう、という感覚だった。
『大和物語』——「生田川」という新しい舞台
奈良時代から約200年後、平安時代中期に成立した説話集『大和物語』(147段)に、この伝説は姿を変えて登場する。
『大和物語』では舞台が生田川に移っている。娘を争う二人の男は「どちらの想いが勝っているか分からない。年も顔も志もまったく同じ」と描かれる。困り果てた母親は二人に難題を出す。生田川に浮かぶ水鳥を射た方に娘をやる、と。ところが二人の矢は同時に同じ鳥の翼に当たった。決着がつかないまま娘は嘆いて川に身投げし、母も後を追う。
万葉集の伝説に比べると、構造が大きく変わっている。万葉集では娘が自ら「黄泉で待つ」と決意して死ぬのに対し、『大和物語』では母が設けた試練が引き金となって悲劇が起きる。悲しみの責任が、娘の内面から物語の設定へと移動した。
また舞台が生田川になった理由について、「生田」という地名に「生きる」という言葉がかかり、「生きることができない」という逆説的な嘆きを表現しやすかったためとする見方がある。実際、物語の中で娘が詠む歌は「住み侘びつ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」——生きている意味などない、生田の川はその名とは裏腹だ、と嘆く内容だ。
謡曲『求塚』——地獄という新しい次元
室町時代、観阿弥(あるいは世阿弥による改作とも伝わる)によって、この伝説は能として舞台化された。謡曲『求塚』(もとめづか)である。
舞台は早春の摂津生田の里。旅の僧が土地の名所を訪ね歩くうちに、若菜摘みの女と出会う。女は求塚(処女塚)について詳しく語り、自分こそ菟名日処女の霊だと明かして塚の中に消える。僧が読経して弔うと、憔悴した処女の亡霊が現れ、地獄での責め苦を訴える。男たちの争いに巻き込まれて死んだ鴛鴦が鉄鳥(てっちょう)となって亡霊の脳髄を抉り、八大地獄をさまよい続ける苦患が語られる。
『求塚』が万葉集や『大和物語』の物語と決定的に異なるのは、処女が地獄に堕ちている点だ。自ら死を選んだわけでも、二人を同時に愛したわけでもない彼女が、なぜ地獄で苦しむのか。能サポ(能楽鑑賞多言語字幕システム)の解説は「男二人に求められること自体が罪深いとする考え方が背景にあった」と説明する。処女の悲しみは、個人の選択の問題から、女性に対する時代の倫理観という問題へと転化されている。
登場人物の名前も微妙に変化している。万葉集では「菟原壮士」と「茅渟壮士」だが、謡曲では「小竹田男」と「血沼丈夫」と呼ばれる。伝説は繰り返し語り直されるたびに、細部を変えながら別の器に移し替えられてきた。
森鷗外『生田川』——近代の倫理が見た決断
明治43年(1910年)、森鷗外はこの伝説を題材に戯曲『生田川』を執筆した。同年5月28・29日、小山内薫らの自由劇場によって有楽座で初演されている。
鷗外の戯曲は上演時間20〜40分の短い作品で、5人の登場人物で構成される。内容は『大和物語』の147段に近いが、焦点は一点にしぼられている。母親が二人の求婚者に「生田川に見える鳥を射た方に娘をやる」と約束してしまい、その翌朝、娘がその話を告げられる場面だ。男たちを乗せた船が川に見え、鳥は消えている。娘は川へ向かい、母も後を追う——戯曲はそこで終わる。
伝説の核心である死そのものが舞台で描かれず、娘が川へ向かう瞬間で幕が下りる。万葉集や謡曲が死の後に続く世界(黄泉、地獄)まで描いたのとは対照的に、鷗外は「決断の瞬間」だけを切り取った。近代の劇作家として、彼が関心を向けたのは、倫理的な板挟みに置かれた人間がどう行動するかというテーマだったと考えられる。
変容の法則——何が変わり、何が変わらないか
1200年以上にわたるこの伝説の変容をまとめると、次のような構造が浮かぶ。
まず変わらないのは、二人の男から同時に求婚される娘の状況と、彼女が死を選ぶという帰結だ。この骨格は万葉集から鷗外の戯曲まで一貫している。
一方で変化してきたのは、死の意味づけである。万葉集では娘の意志による清廉な選択として描かれた死が、『大和物語』では第三者(母)の行動が引き金となる死へと変わり、謡曲では地獄での罰として反転する。鷗外はその死を直接描かず、決断の手前で物語を止めた。
舞台の地名も変容している。万葉集の「葦屋(あしのや)」から、平安以降は「生田川」へと移っていく。処女塚古墳という場所は変わらず存在し続けているが、物語の中心に置かれる地名は時代とともに動いた。
伝説が繰り返し書き直されてきた理由の一つに、語り手の側が何を問題にしているかの変化がある。「黄泉でどちらかに従う」という娘の言葉を真剣に詠んだ歌人たちの時代から、女性の存在が罪業の起点とされた中世の倫理観、そして個人の決断を問う近代劇の視点まで、伝説は語る側の関心を映す鏡として機能してきた。
物語の器と、場所の持続
菟原処女伝説の継承は、2000年代に入っても続いている。川本喜八郎は昭和54年(1979年)、謡曲『求塚』を基に人形アニメーション映画『火宅』を制作した。三島由紀夫の小説『獣の戯れ』には『求塚』のモチーフが影響を与えているとされ、川端康成の『たんぽぽ』は生田川周辺を舞台にしてこの伝説との関わりが指摘されている。
古墳という「形ある謎」が、それ自体の来歴とは別の物語を呼び込み続けてきた。3世紀の豪族の墓が奈良時代に悲恋の塚となり、能の舞台となり、近代劇の素材となった。墓の主の名は永遠に失われているが、場所に積み重なった物語の層は、人々が何度も訪れ、書き直すだけの理由を与え続けた。
処女塚古墳はいまも、神戸市東灘区の住宅街のなかに静かに在る。
参考・出典
- Wikipedia「菟原処女の伝説」 https://ja.wikipedia.org/wiki/菟原処女の伝説
- Wikipedia「生田川(戯曲)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/生田川_(戯曲)
- 銕仙会 能楽事典「求塚」 http://www.tessen.org/dictionary/explain/motomeduka
- 公益社団法人 能楽協会 曲目データベース「求塚」 https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program_db/motomezuka
- 能サポ NOH-Sup「求塚 あらすじ・見どころ」 https://noh-sup.hinoki-shoten.co.jp/sh/109/ja
- ネットミュージアム兵庫文学館「謡曲『求塚』」 https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/bungakumap/k_sakuhin/ks4/
- 日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ「生田川」 https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/829


